伽羅創記

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<<   作成日時 : 2007/09/18 13:39   >>

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 7年前にとある場所で書いたものだが、誤字等直して、ちょっと長めだが追記として載せておこうと思う。しかし今読むと、高飛車というか...まだ若かったのネー、恥。

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  本日2000年11月7日は、アメリカ大統領選挙の日である。現副大統領ゴア氏とブッシュ氏の接戦が続いているけれど、これを書いている数時間後の夜中には結果が出る。いずれにせよ、アメリカ合衆国はクリントン政権から新政権に移行するのだ。
 今年は韓国の金大中大統領が北朝鮮の金正日主席を訪問したことで、朝鮮半島でも南北統一という大きな時代の変化が期待されている。メディアの反応は様々であるが、分断されて二つになった国が再び一つになるということが、10年前の1990年に東西ドイツ再統一(Deutschland Wiedervereinigung)において歴史に刻まれた。その先駆けになったのは1989年11月9日、ベルリンの壁が開いた日である。その時西ベルリン市に住んでいた私は、「じゃあ、壁が開いたの見た!?」と興味深々聞かれることもあるが、自分自身は20世紀最大の瞬間のひとつを目撃したという感動がいまいち薄いままで今に至っている。理由はただ単に、当時私は自分自身のことで頭が一杯で、外の世界に客観的な目を向ける余裕がなかっただけの話なのであるが。

  あれは、とにかく日本にいるのがイヤでイヤで仕方なかった私が、蹴っ飛ばすように日本を飛び出て、西ベルリンに住み始めてから十ヶ月が経ったところで、具体的にはようやく言葉(ドイツ語)が少しラクになった兆しが見えてきて、生活にもやや慣れ出して(本人は精神的亡命生活だとうそぶいていた)、友達もちらほらできはじめて、という頃であった。日本側の友達連代表からは
「みんなで、大丈夫かと心配しています」
 という手紙が来て
「私はハッピー、わが世の春よ。日本なんてサエないところにいる可哀想な人達に心配されるなんて、いやはや心外であるなー」
 とかいう、限りなく高慢に近い正直な返事を出したため、友人関係が断絶し孤立状態になったけど、でもそんなのどこ吹く風で、東京と違って安上がりに夜遊びできるわ、映画館は3DM(当時1DM=80円)だわ、何よりうちのうるさいオッカアも、ここ欧州大陸にいる限りは何やったってああだこうだ言ってこれやしない、家からも日本からもこんなに遠く離れて、これが私の自由の人生のはじまりだ!という解放感に浸っていた。しかしその反面「私って一体何?」という、90年代に入ってから流行った言葉にすると “セルフ・アイデンティティ”に悩み出した時期でもあり、人格的に分裂(Freak‐out)しはじめた幕開けだった。今、こうして自分を客観的に振り返って見ると、「孤立」、「自由」、「分裂」と、これはまるでベルリンの歴史のキーワードじゃないか!と ビックリしてしまう。人間は良くも悪くも、その時の心情風景を反映する場所に身を置くものである、というのは誰が言ったか忘れたけど、当たっているのではなかろうか。
 今回、当時の記憶を必死にたどることになったのは、ベルリンの壁の存在を象徴するある事件のことを書いてみようと思ったからだ。だがその前に、1989年のベルリンの雰囲気を少々タイムトリップしてみたい。初めに断った方がいいと思うので述べておくと、以下に呼び起こすベルリンは、なるべく客観的になるよう努力はするけれど、当時の “ブッ飛んじゃってた私” の目を通した主観に頼らざるを得ない部分が多くあるワケで、「ウソだァ、ベルリンてこんなじゃなかったよー」と仰る人もひょっとしているかも知れないが、とりあえず、こういう感じ方もありましたよ、ということで大目に見ていただけると嬉しいデス。

  1989年11月9日までは、事実上 壁という国境によって東西ベルリンは分断されていた。東ベルリン(東ドイツの首都)に行きたい人は、フリードリッヒ・シュトラーセかチェックポイント・チャーリーといった検問所で東への入国ヴィザを得ないとダメで、西ベルリンはまさに東の中に浮かぶ自由主義、陸の孤島、西ドイツ国境から列車だと8時間の距離があった。西ベルリンの身分は、米・英・仏(第二次大戦連合国)三国の管轄下にあり、公式には西ドイツは管轄外だった。そういうことから西ベルリン在住のドイツ人男子は兵役義務がないので、西ドイツから西ベルリンにやってくる若者も多かったし、兵役拒否グループにはレフト(注:日本のサヨクと一緒にしないように)、アナーキスト、売れてるかどうかは別としてアーティスト、作家というタイプが比較的多かった。それらの要素が世界の不条理を背負った「無国籍都市」というイメージと重なって、あの街に一種のトガった魅力を醸し出していたと思う。また西ベルリンは、もともと出稼ぎ労働者としてやって来てそのまま定住したトルコ人をはじめ、外国人の比率も西ドイツの他の都市と比べて俄然高かったから、適度なエキゾチックさもあった。
 ベルリンには、非生産的でうらぶれたような雰囲気が漂っていた。一言で言えば、Depression(鬱)でDecadence(退廃)という、ヨーロッパ文化の負の遺産と言われるものである。それをBerlinerluft(ベルリンの空気)と呼んだのかどうかは知らないけれど、「前向きに希望を持って、明日を信じ明るく生きよう」なんてな態度を全面に出していると「アメリカ的ノー天気」と、ともすれば嘲笑される醒めた傾向があったし、それは進歩的と見られるような若者の中で程強かった感がある。もっとも当時、若さにありがちな理想と現実の相克をニヒリズム的ロマンティークで片付けようとしていた私には、彼らの厭世的人生観も親和性のあるものだったけれど。
 あのうらぶれたような雰囲気には、天候も大きく影響していたと思う。なにしろ一年の半分は冬で、空は厚い雲に覆われ、太陽まで冬眠してしまうのだ。それに10月にもなると街中にコークス(石炭)の匂いがしてくる。古い住居が多いので、暖房には炉にコークスをくべるのだ。あれは何だか肺結核にでもなりそうな気にさせる匂いであった。
 そんな曇った薄ら寒い昼下がり、ティアーガルテンの森の中を通る道をベルリンフィルハーモニー方向へ歩いていると、旧日本大使館の建物が見えてくる。今は改築されて綺麗な日本文化センターとなっているが、当時は無人の廃墟であった。よく見ると隣にはイタリアだかギリシャだかのやはり旧大使館廃墟があって、まるで死神が並んでいるようなオドロオドロしさなのだが、東京みたいに何でもキレイキレイに取り繕われているようなところから来た人間にとっては、それはそれで絵になる異様さだったから見とれていた。旧日本大使館の玄関には菊の御紋があって、屋根の上には雨風に曝され泥色になった日の丸の旗が微かに揺れていた。恐らく1945年以来そのままである。内部には勿論入れないが、入ったことのある人によれば、1945年付けの日本の新聞が床に落ちていたとか、オーブンに化石化したパンが入っていたとか、こっちも何かとシュールな話であった。ベルリンフィルの建物を通り過ぎると、道は「ベルリンの壁」につきあたり行き止まりになった。壁は灰色のコンクリートで、高さは4メートルあるかどうかというところ、そんなに高くはないのだが、威圧感は相当のものだった。有名な「ベルリンの壁グラフィティ」と呼ばれる落がきが果てしなく続く。足元の石畳の道には路面電車の錆びたレールがあって、それも壁のところで途切れていた。

  ベルリンの街の雰囲気はこんな感じとして、つぎは1989年当時の社会現象を思い出してみたい。中国の天安門事件が報じられていた夏の同じ時期だったが、とにかく東ドイツから逃亡する人間の数が急増加して、そのルートというのが、まず旅行が許される東欧圏のハンガリーに行き、そこからオーストリアへ抜けるという話がメディアで多々取り上げられていた。「東ベルリン市民は、このルートを使う場合 ハンガリー、オーストリア経由で西ベルリンに戻ってくるという還元円運動になるわけだ」などという冗談ともつかぬ話をしていたのを覚えている。
 例えば西ベルリンの地下鉄6番線は、ある区間が壁の下をくぐり東ベルリン内を通過するものだった。壁ができる前には止まっていた駅を素通りするのであるが、そこには東の警備兵がいて常時監視しているのだった。チェックポイント・チャーリー検問所の近くには、壁の手前に東側が見れる観台があって、そこに上るとベルリンの壁の向こうの東側にはさらに壁があり、二つの壁の間は東からも西からも誰も入れない無人ゾーンとなっていた。
 東側には監視塔があり、警備兵が時々双眼鏡でこちらを見る。一度、こっちを見ている兵士に笑って手を振ってみたが、見事に反応無しであった。少なくとも、1989年ではあの壁を越えて西側に逃げるなどというのは、まず不可能であった。第一、壁までたどり着く前に、無数の地雷やら警察犬やらを突破しなければならない。これはもう五右衛門と次元に応援してもらって、ルパン三世だったら何とかできるかもネ、という非現実的な話である。

  さて、日本ではフェヒター裁判 (Fechter-Prozess) というものは、報じられたであろうか? これは1962年8月17日、まさにベルリンの壁の下に起こった事件が発端となっている。17歳の土木作業員ペーター・フェヒターは友人一人と共に、ベルリンの壁を越えて西側へ逃亡を試みた際、東側の国境警備兵に狙撃された。彼が落ちたところは無人ゾーンであったため、西からも東からも誰も救助に入れなかった。約50分間、大衆の目前で致命傷を負ったフェヒター青年は血を流し助けを求め続け、絶命した。東側から救急車がやって来て担架でフェヒター青年を運び去ったのは、なんとそれから6日後だった。この事件は西側で大きな論争を起こしたが、東ドイツでは、フェヒター青年を逃亡による事故死と片付けて葬った。
 フェヒター青年の無念の死から27年後に壁が開き、その翌年1990年10月に東西ドイツは再統一した。あの時、テレビでコール首相と政府高官のおじいさん達が、“Einigkeit und Recht und Freiheit”ではじまる(西ドイツ)国歌を気の遠くなるような音痴で歌っていたのをよく覚えている。再統一からさらに7年後の1997年3月5日、ベルリン地裁でフェヒター青年の姉らが告訴し、フェヒター青年を狙撃した当時の警備兵二人を被告人とする裁判が行われた。裁判に関する3月6日付け新聞記事が幸運にも入手できたので読んでみた。Berliner Morgenpost(BM), Berliner Zeitung(BZ), Die Tagesspiegel(DT)の三紙なのだが、語調はBMがどちらかと言うと訴追側寄り、BZ が被告寄り、DTは中間といったところであろうか。ただしこれは、私が感じたニュアンスを強いて言えばであり、個人的にはBZが事件の本質に一番切り込んでいると思った。判決は被告に“20から21ヶ月の執行猶予付き殺人罪”が下ったのであるが、三紙の情報を合わせてもっと詳しく続ける。

 1962年8月17日、フェヒター青年と友人は、国境にある郵便局の無人ゾーンに面した窓(当時、まだここは塞がれていなかった)から無人ゾーンに入り、壁を登って西側へ逃げようとした。東の警備兵が彼らを発見し、発砲を開始した。友人は西側へ脱出できたが、フェヒター青年は銃弾にあたり、壁から無人ゾーンに落ちる。それから50分後、大量出血の末死亡するのであるが、この時狙撃した警備兵が被告人であるF(61歳)、S(55歳)、そしてすでに死亡しているもう一人の兵士だった。FとSは壁を登ろうとするフェヒター青年に向かって左側から狙撃し、もう一人が右側から狙撃した。最低でも25発の発砲があったとされる。解剖の結果(ということは、27年経ってフェヒター青年の遺体を墓から取り出したということだ)、フェヒター青年の骨盤右からカラシニコフ銃弾が動脈に命中しており、これが致命傷となった。以上が状況説明で、つぎは裁判で論議となった点。

 1. 誰の弾が命中したか
[被害者を死に至らせた銃弾は、右側から発砲されたものである。被告は二人とも左側から狙撃しており、右位置にいたのはすでに死亡しているもう一人の兵士であった。ただし、銃弾を受けた瞬間に被害者が壁をよじ登っていた、つまり東側に背を向けていたなら右からの銃弾となるが、目撃者がいないため必ずしもそうだと断言できない。被告のどちらかが発砲した銃弾である可能性もある]
 2. 救助責任
[被害者は大衆の目前で無人ゾーンに約50分間致命傷を負いながら放置状態となった。無人ゾーンは西からも東からも立ち入り禁止となっている。東の兵士は武器を構えているアメリカ兵を恐れ、アメリカ兵はゾーンに踏み込んだがために、東西の銃撃戦に発展するのを恐れてとどまっていた]
 3. 当時の政治状況
[被害者は東ドイツ国民であり、壁を越えて西へ逃亡することは禁じられていた。被害者は、それを承知で違法行為をとった。被告は国境警備兵として任務を遂行した。統一後のドイツにおいて、西の法でいかに東を裁くのか]

 これらに答える判決文は以下である。
『事件の認識は、被害者は致命傷を負っており、即座に救出されていたとしても助からなかったろうということだ。銃弾は被害者の右側から命中している。しかし誰の銃弾であったにせよ、狙撃した被告は有罪である。狙撃は逃亡者を死に至らす可能性が高いことは理解した上での行為であり、ここに法律家が“共犯”と呼ぶ罪があるとされる。一方、被告には警備兵としての任務があり、狙撃を罪とするならば、彼らは罪の行為を任務命令として遂行したのである。当時20歳と25歳の若者は、社会主義国家の方針から自らを自由にすることは出来なかったし、彼らもまた国境・冷戦時代の犠牲者である。よって法廷は命令を下した者も共犯であるとする』
 裁判はこの後も、この事件の他の関係者に及んで続くと書かれている。20から21ヶ月の執行猶予は、殺人罪としては大変「マイルドだ」というのが、どの新聞でも見解のようだ。
 だけどなぁ ....。私はやはり後味の悪さを拭えない。肩を持つつもりはないが、もし自分が被告だったらどう思うか。被告側の弁護士も間違いなく主張していると思うが「じゃあ、あんたがオレならどうするよ?」である。万が一、あの時人道的に正しいとされる判断ができたとして狙撃を拒否したら、 “逃亡の手助け”ということで自分の身が危険になる。「命令を下した者も共犯」だってのなら、一番上に座ってたのは誰だ?18年にわたり国家評議会議長だったエーリヒ・ホーネッカーのじいさんは、逃亡者射殺命令の責任者として殺人罪に問われたが「なにせ年、えらく肝臓患ろうてますんで」って裁判は中断、釈放されてチリにトンズラ、1994年に当地ですでに死亡してるし、「事件の起きた62年に、わしゃまだ権力なんぞ握っとらんわ!」って言われたら、責任遡って1961年8月13日にいきなりベルリンの壁で東西を分断した、そのたった2ヶ月前の6月15日、西側プレスの前で「私達が壁を作っている?一体何を言ってるんですか、あなた達は?」とスッとぼけとおしたヴァルター・ウルプリヒトが一番悪いってなるし、ウルプリヒトの言い分なら「だって、後ろにソ連がいたんだぜーぇ」で、結局「どうしろってのよ合戦」にしかならない。
 ベルリンから資料を送ってくれた知人に、この件に関しての世論はと聞くと
「統一の影の部分ということで、あんまり語りたがらない話よね」
 だそうである。因みにベルリンの壁及び国境越えに失敗して死んだ人間は900人と言われているが、例えば1971年に、やはり逃亡者を狙撃して死亡させた東ドイツ兵の裁判関連記事もBMに小さくのっていた。
 ペーター・フェヒター青年の姉、ルート・フェヒターさんは
「これは、狙撃した兵士達への復讐ではありません。DDR(東ドイツ)という、人間性を無視し、排他的で敵意が日常であった国に生きた者の事実を明るみに出すのが目的です」
 と語っている。フェヒター一家は事件の後、何十年にもわたって政府とSTASI(公安警察)から圧迫、誹謗という精神的虐待を受けたことも、知っておかねばばらない。
 フェヒター裁判の判決をどう感じるかは、人それぞれであろう。
 おまけの話だが、ホーネッカーが退陣した後、1989年10月にエゴン・クレンツが後任として国家評議会議長になった。彼は12月に早くも辞任しているのだが、97年8月25日に、ベルリン地裁でクレンツの射殺指示殺人罪を問う裁判が行われていた。これはクレンツにしてみれば貧乏クジで
「そりゃねぇだろー!ジジイの後に担ぎ出されて、壁を開けるのに踏み切ったのはこのオレだぜ。議長やったのたった二ヶ月よ。第一、国境問題の主権は東ドイツじゃなくて旧ソ連にあったんだ。無罪にしてくれよなー」
と主張したが
「国家評議会は事実上、東ドイツ最高の意思決定機関だかんね。そこの最高幹部だったあんたは被告の責任逃れられませんな。悪いけど禁固6年6ヶ月(求刑同11年)の実刑〜!」
 と返されている。(若干私スタイルの和訳あり)
 まぁ、クレンツにこれぐらい食らわせたんだから、狙撃事件で告訴されている元警備兵の方々にはガマンしていただきたい、という見方もできなくはない。

  1989年11月9日、私はグータラ生活リズムで昼過ぎに起きて、しばらくサボっていたドイツ語のクラスへ出るために地下鉄に乗った。やけに人が多くて、ザワめいているから何かイベントでもあるのだろうか、なんてまだボーッとしてる頭で思っていると、ふいに「Stadtmitte(シュタットミッテ)はどこですか?」という声がした。見るとティーンエイジャーと見られる野暮ったい男の子が、オドオドした感じで立っていた。Stadtmitte 、街の中心という意味だが、変なことを聞くヤツだ、と思った。旅行者でもそんなこと聞く人間には会ったことがなかった。
「クーダム(西ベルリンの目抜き通り)のこと? だったらつぎで降りて歩けばすぐだけど」
 小バカにした調子で、ぶっきらぼうに答えた。
「ああ、どうも」
 分かったんだかどうだか知らないが、男の子は小声でモソッと礼を言った。
 学校へ向かう道の途中で、同じクラスのポーランド人の男の子が反対側から早歩きしてやって来た。
「授業はないよ、壁が開いたんだ。みんな見に行ってるよ!」
「壁ってあの壁、Berlinermauer(ベルリンの壁)?」
「そう。東の人間はみんなこっちに来るよ」
「え――――――――――ッ、うっそ――――――――――ッ!!!!!」
 私は体を180度返すと、今来た道を駆け足で駅に戻り、家に帰ってカメラを引っつかむと、大急ぎでチェックポイント・チャーリー検問所へ向かった。

 チェックポイント・チャーリーは群衆でごった返していた。うまい具合にイギリスの報道グループが人ごみをかき分けて進んでいるのを見つけたので、私もその一人になりすまし最前列に出た。検問は完璧にノーガードで、東側から続々とビンボーくさいトラバント(東独のクルマ)が出てきた。一台現われる度に、歓声と拍手が沸きおこる。泣きながら運転している人もいた。壁に梯子をかけて上っている人達もいた。それに東の兵隊が「おいおい、落ちるなよ」なんて笑いながら声をかけている。Unglaublich(信じられない)である。

  帰りにコッホシュトラーセのプラットホームで地下鉄を待っていた時、抱き合って泣いている家族のような集団を見た。花束を抱えている人もいた。夢じゃない、ベルリンの壁は紛れもなく陥ちたのだ。
 コッホシュトラーセなんて殆ど来たことのない駅だった。6番線が通っていて、これもあまり利用したことのないラインだったので、私は地下鉄マップを見て乗り換え駅を確認した。コッホシュトラーセはチェックポイント・チャーリーの手前、壁に隣接する駅で、東方向の隣駅は東の兵隊が警備している電車の素通りする駅だ。しかし今日は警備兵もいないかも知れない。その時私はハッとした。隣の駅はStadtmitteという名であった。
「Stadtmitteはどこですか?」
 一瞬にして理解した。数時間前に電車の中で会った男の子は、東ベルリンから来ていたんだ。壁ができる前に、Stadtmitteはベルリンの中心地の駅だったのだろう。駅共々、かつての中心地は失われていたのだ。男の子はその言葉どおり、街の中心へ行きたかったんだ。だってStadtmitteは一番華やいだ場所、ワクワクする場所だから。
 知らぬこととは言え、彼に冷笑的な態度をとってしまった。日頃ドイツ人のふてぶてしさにムカついていた私は、多少失礼なことをやっても「いつもやられているからお互いさまだ」と、良心の呵責などめったに起こらなかったのだが、この時ばかりは微かに心の痛みをおぼえた。これが私の「11月9日」の想い出である。

  新聞にのっている写真のペーター・フェヒターは、どこにでもいるような、線が細めでちょっと気の弱そうな17歳といった印象だ。Stadtmitteに行きたかった男の子に、なんとなく似ていたような気がする。


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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
毎度、今回もまじめに読んでいたわよ、本当にベルリンの歴史も深いものがあるわね、私もあの劇的な壁が崩壊した歴史に残る日は経験したり、その以前から、現在まで住んでいて、ベルリンのめまぐるしい変わりようを見ているわ、たとえば最近でもないけど、2002年、ヨ一ロッパで紙幣がユ一ロ統一された時、彼と店を経営していた私は、物価かあがり、一揆に売り上げがさがったのを、覚えているわ、シュリッペン(パン)は倍の値段になっているのよ、今年から消費税は16%から19%に上がるしね、本当にあんたがいた時は、夢のように安上がりだったわよ、もちろん、時代は変わっているのでもんくはいわないけどね、片や最近だけど、22時までス一パ一やっているので私達にとってはのんびりお買い物って感じよ、20年前は平日は19時頃、土曜日は14時で閉店だったわよね。そこ時の土曜日の買い物は本当にまいっていたわ、時間はないわ、数少ないレジなのか、永遠に並んでいたわね、今は笑い話よね、これもいい経験よね、、又ベルリン編書いてね。楽しみにしているわ、、、
MASU
2007/09/19 05:55
冷戦時代は東西でなにかあったら真っ先に火の海になるベルリンになんぞ、金持ちは資産を持ちたがらなかったですからねぇ。非生産的な分、物価も安かったわけで。今はもう、以前みたいなド貧乏じゃ生きられないですな。(ホント、私も金なかったよね〜)
3連休なんて、買い物し忘れて食料難になることよくあったし。「これじゃ共産圏と変わらん!」て文句言ってたね。
そのうちセブンイレブンもできるんじゃないでしょうか。(すでにあったっけ?)
カラビ
2007/09/19 11:13
訂正:ペーター フェヒターは、死亡当時17歳ではなく18歳でした。
   (多分、私が計算間違いしていた)
カラビ
2007/09/19 11:54
セブンイレブンはないけど、トルコ系の店とかフリィ一ドりッヒ駅の近くの多きな本屋は24時間営業で話題になっていたわ、たまに土曜日のク一ダムは23時ぐらいまで開店しているのよ、カ一デ一べ(デパ一ト)とかね。とまあ、時代は変わってても、私の回り道はあまり変わらないのよね。でも彼をはじめ仕事面とかいろいろ協力してくれているお友達等に感謝をして、今は亡き両親にもね、そして、おもたいベルリンに祈って、もちろん、18歳で亡くなったぺ一タ一を含む犠牲になって人達にも祈っていくわ、では、また近いうちね、、
MASU
2007/09/19 15:18
MASUちんの「祈り」から、瞑想指導をしておられる地橋先生の言葉を思い出しました。
『この弱肉強食の現象世界で、誰もが幸せであることは不可能なのは重々承知しながらも、それでも、生きとし生けるものは幸いであってほしい、苦のない生涯を送ってもらいたい、と決して叶えられるはずのない、絶望的な祈りを捧げたくなるものです。
また、そのような波動を発している人がこの世に存在している事実だけでも意味があり、価値があるのです』

指揮者バーンスタインも、戦争など悲惨なでき事に無力な自分たち人間を考えた時に言ったそうです。「祈るしかない」と。
カラビ
2007/09/20 10:04

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ベルリン −追記 伽羅創記/BIGLOBEウェブリブログ
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