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新宿駅東口の改札口を出たところであの女を見たのは、梅雨のさなか、なま温かい雨の降る夜だった。全身の毛穴が膨張するとも縮み上がるともつかない衝撃が翔一の体に走った。血色の悪い黄ばんだ顔をしかめ、女は灰色の壁の前にしゃがみこんで、重心を膝丈のスカートからのぞくなま白い右脚から左脚に移し、また左脚から右脚にという繰り返しをしていた。通行人はみな、一目で頭がおかしいとわかる女に一瞥をくれて、足早に通り過ぎて行った。女の姿はすぐに金曜の夜の人混みに埋れた。翔一は追われるように地上をめざして、濡れた階段を上った。 待ち合わせの喫茶店に着いた時、約束の時間は30分以上過ぎていた。客もまばらな店内に、苑加の姿は見当たらなかった。翔一はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。先刻から何のメッセージも入っていないままだ。傘立てに傘を置く気配もなく立っている翔一に、女の店員が会釈をして近づいてきた。若い女が一人で来ていなかったか聞くと、店員は奥のテーブルを示して、女性お一人のお客様はいらっしゃいましたが先ほどお帰りになられました、と言った。 店を出ると、会社を出てから急いで来た疲れが、急に全身に回った。傘を持つのも億劫で、なんでもいいから一番近くにある地下街入り口を降りて駅へ向かった。 苑加は待っていたなら、どうして電話ぐらいしてこないのだろう。こっちから連絡はできないのだから。翔一は苛ついた。仕事が片付かず約束の時間に遅れたのは悪かったが、苑加がしたことに比べたらとるに足らないものだ。翔一名義でデパートのクレジットカードを作り、42万円の請求が送られてきた時には何事かと思った。電話をしても不通、もっと信じられなかったのは、苑加は会社も退社しており、アパートに行ってみるとすでに引き払った後だったことだ。あれから三週間経って昨日夜遅く、苑加は電話をかけてきた。 「何やってるんだよ、コノヤロウ!」 声を聞くなり怒鳴った翔一の耳に、公衆電話からかけていると思われる雑音の紛れた声が返ってきた。 「ごめんね。こんなことになるなんて思わなかったんだけど。とにかく会って話すわ。なんとかする」 苑加は待ち合わせの店を早口で告げて電話を切った。 苑加とつき合うようになって二年が経つ。前のアパートに翔一が入る前に住んでいたのが苑加だった。不動産屋に案内されて間取りを見に行った時に知り合った。目元の明るい好印象の子だった。前の住人宛ての郵便物が来たら知らせるという理由で、電話番号を聞いておいた。引越しが落ち着いてから連絡を取り、それから会うようになって、よくある風につき合いはじめた。 あの時、苑加は短大を卒業して、一足先に社会人生活をはじめたところだった。翔一は今年四月から新卒社員として企業に入社した。会おうと思えばいつでも会えた学生の頃とちがい、苑加と過ごすのは主に週末だけになったが、変化といえばそれぐらいで、二人の心情面になんら奇異なものが生じたということはなかった。こんなことになって、苑加の親の居場所を知っていればと翔一は痛く思った。実家は横浜だとか、父親は地元の会社の課長だとか言っていたが、橋本などという苗字は電話帳に数え切れないほどある。とてもじゃないが探し出せるものではない。アパートを自分で引き払ったのだから誘拐事件には該当しなそうだが、もし思いも寄らぬことに巻き込まれていたら、とも考えた。二年のつき合いで、翔一は苑加がこんなことをする人間とは思えなかった。だが、昨夜の電話でいつもと変わらぬ声を聞いた途端、なにか思いも寄らぬことに巻き込まれているのではないかという善意な心配は蒸発し、信頼を裏切られた怒りだけが赤錆色の残留物になって胸に燻っていた。 翔一は駅東口は避け、西口の改札へ回った。あの女がここにいるなんていうのは、考えられない。だが若い時に新宿でホステスをしていたと言っていた。それは覚えている。T駅からここに来るには、J線に2時間乗って一度は乗り継ぎをしなければならない。脳梅女にできるのか? 口を開ければわかった。あの女には前歯がなかった。でもよく似ていた。五年前に見た時から老けてなかった。むしろあの時よりましに見えた。じゃあ、やはり別人じゃないか。だいたい頭のおかしい女なんて、似たようなのがいくらもいるだろう。それにしても、なんで新宿なのだ? プラットホームに上がった時、ちょうど下り電車が入って来たところだった。翔一は列の最後について混み合う車内に乗り込んだ。冷房から送られる風が、汗ばんだ皮膚を撫でた。ドアが閉まり走り出すともう冷房には慣れて、今度は湿った人いきれの匂いが鼻についた。新宿が後ろに遠ざかり、窓ガラスをつたう雨水が、ずっと思い出さずにいられた記憶の幕を開けた。 高校三年、十七歳の夏休み前、翔一はT駅であの女に話しかけられた。通っていた受験予備校が家から駅四つ離れた市にあり、毎日21時08分発の上り電車に乗って家に帰っていた。いつも駅で20分ほど待つ時間があった。 あの女のことは、それまで何度も見かけていた。いつもT駅の北口にいる頭のおかしい女、年頃は四十くらい、真ん中わけした背中までとどく髪、血色の悪い黄ばんだ長い顔で、ちょっと大柄だった。一度、若い警官に 「おまえ、毎日駅に来るんじゃねぇよ。家があるなら帰れ」 と怒鳴られているのを見たこともある。警官が行ってしまうと「あなたは一番意地の悪いおまわりさんよ。そんな冷たくしなくてもいいじゃないの」 と見えなくなった相手に向かって言っていた。 あの晩、翔一はT駅北口の芝生を囲むベンチに座っていた。むせるように暑く気だるかったが、機嫌がよかった。予備校の模擬テストの結果が今までにないほど良く、もしこのまま成績が伸びてゆけば、第一志望の**大も受かる可能性が出てくる、と講師から言われたからだった。 **大を第一志望にしたのは同じクラスの繁夫の影響だった。建設会社の放蕩息子を自称する繁夫は、学年で常に成績上位、校則違反に抵触する服装で飄々としているのが何かと目立った。繁夫が翔一に話しかけるようになったのは、翔一が自分と似た構え方をしているものの、明らかに一歩遅れているという親近感と優越感からであった。 「**大って軟派な感じでいいね。大学の中じゃ、一番スノッブだと思わない?」 体育の授業をさぼり、喫茶店で煙草を吸いながら、睫毛の長い三白眼を流し目にして繁夫は言った。陽にあたるのを嫌うなま白い首に、小さな黒い石を繋いだネックレスをしているのが見えた。翔一たちの高校から**大に現役合格するのは一人か多くて二人というところ、繁夫は合格できるか五分々々、翔一はまず無理だった。それでも第一志望を**大にしたのは、**大には世の中を莫迦にしながら軽やかに戯れている人たちがいて、それは繁夫の襟にのぞいていたネックレスの冷たく徒な黒いきらめきと重なり、自分もその輪に入りたいという憧れがあったからだった。 「スノッブっていうのは、自分の趣味を鼻にかけてる奴のことだけど、そもそも鼻にかけられるだけの趣味があるのなんて、そうはいないやね。それはおベンキョより上段にあるもんなんさ。ガツガツやって身につけるもんじゃない」 繁夫曰く、物事を力んでやる奴というのはカッコ悪い。そういう繁夫に、翔一は学校が終ってから予備校へ行っていることは言わなかった。もっとも繁夫は放課後など長居するものではないと、誰よりも早く家に帰っていたので気づかれることもなかったが。(後でわかったが、繁夫には家庭教師がついていたのだった) 「男の方かしら?」 心もとなく宵闇を飛ぶ蜻蛉のようにふわふわした声がして顔を上げると、ベンチの端でいつも北口にいる頭のおかしい女が焦点のはずれた目でこちらを見ていた。薄暗い街灯の下でうつむいて煙草を吸っていた翔一は、髪が肩までとどく長さだったため、男か女かはっきりしなかったのだろう。 「はい」 明らかに男とわかる声の返事を聞くと、あの女は前歯のない口で笑った。 「煙草下さらない?」 翔一はポケットから皺になったセブンスターを取り出して、女の方へ差し出した。 「ありがとう」 煙草を口に咥え火を待っている女に、翔一はライターをかざした。女は最初の一服を深く吸い込むと、口と鼻から同時に煙を吐いた。煙は女と翔一の間を遮るように背後の植え込みから伸び出た梔子の枝の一つだけついた白い花にからみつき、もったりと熱い夜気に溶けていった。駅前に商店の並んだ南口と違い、北口はすでに人通りもまばらで、芝生を囲むベンチには他に誰もいなかった。 「おばさん、どこに住んでるん?」 女はどこかの地名を言ったが、翔一にはわからなかった。 「家に帰らないん?」 「帰れないのよ。娘がいるけどね。モモコっていう。丸顔で、あなたみたいに色の白い」 翔一は梔子の花めがけて煙を吐いた。 「モモコには会わせてもらえないのよ」 そう言って、女は茶色っぽいズボンの太腿を擦った。 半分白髪で、半そでシャツに労働者風のズボンをはいた男が一人、ベンチの前を通りかかった。男は翔一に顔を歪めて振ってみせた。その女は頭がおかしい、相手にするな。わかってる、電車待ちの暇つぶしだ。頭のおかしいのは、面白い話をするかも知れない。男と翔一の無言のやりとりを知るよしもなく、女は街灯の光で更に血色の悪くなった長い顔を突き出し気味に、ぼんやり煙草を吸っていた。 「どうして娘に会えないん?」 「事情があるのよ。そのこと考えると、頭が痛くなるわ。あなたもモモコのことを、ひとに言わないでよね」 眉に不機嫌な皺を寄せ、女は身をよじるようにしてベンチの背にもたれた。ゴム製のサンダルから、ひび割れた踵がはみ出していた。 「おばさんの言葉、綺麗だね。どこで覚えたん?」 「おばさんじゃないわ。おねえさんて呼んで」 翔一は呆れて笑った。 「昔ね、新宿でホステスやってたのよ。夫に会って結婚したけど、捨てられたの。あの人、愛人のところへ行ってしまったわ」 「いつの話?」 「七年前。そういう男なの」 あまりによくありそうな話だった。男に捨てられて頭がおかしくなったのか、それとも頭がおかしくなったから捨てられたのか。 「わたし、五年ないのよ」 女の言う意味がわからず、翔一は顔をしかめた。 「え、なに?」 「セックス。五年してないの」 女は前歯の抜けた隙間から空気を漏らして言うと、また不機嫌な表情で上半身を反らして、色の褪せた黒いサマーセーターの裾を引っ張った。垂れて横広がりの乳房が盛り上った。頭のおかしい女は、みな同じような色呆け話をするのだろうか。ふわふわした声の調子も相俟って、愛人のもとに去った夫もモモコという娘も、女の濁った頭の中に棲む妄想に思えた。真実を知っているのは「家に帰れ」と女に怒鳴っていた若い警官かも知れない。 腕時計を見ると、もうすぐ9時だった。 「ねぇ、ビール買って下さらない?」 女の目は翔一から微妙に外れていた。 「ビール? どこで?」 「あっちのお店」 女は駅に隣接した駐車場の向こうを指した。黒いサマーセーターから伸びた手が、街灯に照らされて青白く浮いていた。 「あっちに店があるんかい?」 「あるの。ついて来てちょうだい。一緒に行きましょ」 弾んだ声だった。翔一は煙草を地面に落とし、足でもみ消すと女を一瞥した。女は前歯のない口でにまりとして立ち上がった。電車は21時08分の次は、21時42分だった。翔一は女の後について歩き出した。 それほどビールが飲みたかったわけでもない。歩くのもかったるい熱帯夜だった。それなのに女について行ったのは、女の言うことが本当かどうか、最初で最後に確かめたい気持ちがあったからだった。もし向こうにビールを買える店があるなら、女の頭も全部イカれているわけではないと言えよう。なかったら、女は真性のキチガイだ。 まったく風のない夜だった。歩くと途端に汗が吹き出た。車がぽつりぽつりと停まっている広々した駐車場を通り越したところに酒屋はあった。女は店内を外から一瞥して通り過ぎた。 「ここでしょ。ねぇ、おねえさん」 翔一に呼ばれて女は振り返り、眉をしかめた。 「ここは、お店のおじさんが悪いやつなの。何されるかわからないわ」 「そうなん? でもビール買うだけだからいいよ、ここで」 「ここは悪い店よ。あっちにいい店があるの」 「いいって、ビール買うだけだからさ」 暑くてそれ以上歩きたくなかった翔一は苛ついた声でそう言い、店に入って行った。冷房の効いた店の中は、生きかえる心地だった。ドアが開いたチャイム音で、奥から眼鏡をかけた主人らしき男が出てきた。翔一は缶ビールを二本求めた。金を払う時、この先にも酒屋があるかと聞くと、主人らしき五十がらみの男は、この先は公園であとは民家だから酒屋はないですよ、と愛想よく答えた。 外に出ると、女はさっきと同じところに立っていた。 「買ったよ」 ビールの入ったビニール袋を下げて、翔一はもと来た方へさっさと歩き出した。 「いい人そうなおじさんだったで」 不機嫌な調子で、後からついてくる女に言った。返事はなかった。 駐車場まで来ると、翔一は女に振り返った。 「ここで飲も」 駅前のベンチには戻りたくなかった。頭のおかしい女と一緒に飲んでいるのを見られるのは、さすがに気がひけた。奥の方にある車の陰にでも座って飲もうと考えた。 倉田商店と名前の入った白い軽トラックは、助手席側の窓が開いていた。あの時、どうしてあんなことを言い出したのかわからない。すでに何かが無意識に進行していたのかも知れない。翔一は窓から手を入れて軽トラックのドアを開けた。 「俺の車なんさ。中で飲も」 女は何も言わず、倒した助手席を跨いで後ろの席に乗り込んだ。ビールをもらうまではなんなりと従うという風だった。 車の中は皮膚を押しつける熱気が澱んでいた。翔一は運転席の窓も全開にして、長いため息を吐きながらシートに崩れた。ビールの入った袋ごと女に差し出すと、女はふわふわした声でありがとうと言って一本を取り出した。栓から炭酸が放出する音と女がビールを飲むのを見とどけてから、翔一は自分のビールの栓を開けた。冷たい痺れが直線となって喉と鼻を貫けていった。汗でぬめった腕に、ビニールシートがいやらしく張りついた。女は駐車場の灯りを背にうけ、ぼんやりと外を見ていた。翔一はビールを得て満足そうにしている女を邪魔してやりたくなった。 「ダンナさんさぁ、何も言わずにいなくなったん?」 「ええ… そうよ」 「その愛人の女って、会ったことあるん?」 「ええ。悪い女よ。すごく悪い」 女はふわふわした声で答えていたが、そのうち急にがくんと頭を垂れ、両手で大きく髪をかきあげた。脂じみた匂いが翔一の鼻にとどいた。その匂いは、どんなことがあっても相容れない世界のものであり、二人の間を決定的に隔てていた。目の前に在るのは、混濁した沼のような精神、そして不可解な女という性であった。異質なものへの嫌悪を包含した疼きが臍下を這い回った。息苦しく澱んだ熱気は、翔一の皮膚感覚を麻痺させた。行き場のない血が満ちていた。 覚えていない。女のズボンを引きずり下したのも、女がどうしていたのかも。翔一が獰猛に欲していたのは、柔らかく優しい未知の肉感だった。それに達するまで救いはなかった。鳥がはばたきを止めたら墜落するのに似た切迫で、翔一は盲進した。 瞬間、全身が泡立ち、一斉に弾けた。快楽は訪れた。だがそれは感じとった時には、すでに過ぎ去ったものであった。後にはぼんやりと、横広がりの乳房が盛り上った黒いセーターの胸が、シートにだらしなく横たわっていた。ズボンと下着を膝に絡ませて、汗と煙草のヤニの混じった脂じみた匂いを発する、たとえ嫌悪であれ、およそ感情というものを持って直視するのは耐えられない生命が。 ひょーゥという音が聞こえてきた。駐車場の裏手を走り去ってゆく電車からなのか。音は次第に大きくなり、はっきりと咽ぶ声になっていった。女は今、一度も焦点の合わなかった目で呪いをかけるように翔一を見据えていた。前歯の抜けた真っ暗な穴からひょーゥ、ひょーゥと、不吉な夜の鳥が囀っていた。翔一は凍りついていた。恐ろしさよりも、虚しい快楽に飛び立った自分を取り戻し切れずに焦っていた。女の血色の悪い顔は濡れて歪んでいた。ふと、手が温かいものに触れた。湿った藁に似た匂いが上ってきた。それが女の小便だとわかった時、冷たい閃光が体を貫いた。翔一は、ひょーゥ、ひょーゥと咽び啼く黒い洞穴に殺意を握り締めた拳を打ち込んだ。ぬるっとした感触だけがあった。駐車場のあえかな明かりに縁どられた沈黙、そのわずかな間だけを夢のように憶えている。喉の奥を擦り合わせるような叫び声が上がり、翔一は車から飛び出した。途端、大粒の雨がぶつかってきた。みるみるうちに土砂降りになる中を、駅へ向かって疾走した。 北口の階段を駆け上り改札口を抜けてプラットホームの一番端まで来ると、翔一は地べたにうずくまった。体中汗が噴出しているのに、雨に濡れた寒気に襲われていた。苦しい息でホームの時計を見上げると、22時29分上り最終電車まで30分以上あった。叩きつける雨の水飛沫で、線路の向こうは霞んでいた。夜空を瞬時漂白する雷が近づいていた。 それ以来、翔一はT駅の北口を避け、遠回りの南口を利用した。時間が経つにつれて、あの夜のことは、万引きが見つかりそうになったのをうまく逃げおおせた程度のものになっていった。 翌年の早春、翔一は**大には及ばず、第二志望に受かった。まわりからよくやったと感心された。確かに三年のはじめの成績では、合格は難しいところだった。十中八九無理であった**大を第一志望にしていたのが、最後に力を引き上げたようだ。 繁夫は**大に受かってあっさり蹴ってやるという魂胆で受験した県の国立大に合格したが、**大には受からなかった。現役合格で教師はじめみんなに賞賛されても、繁夫は喜ばなかった。 「むさい地方国立なんか、趣味じゃないで」 そういう繁夫に、そんなに**大に入りたいのなら来年また受ければいいだろう、と翔一は言ったが、繁夫曰く、浪人して入るのは執着でスノッブではないのだそうだった。その後、繁夫は大学一年が終らないうちに、アメリカへ留学した。 高校の卒業式の直前、喫茶店で繁夫は時々会っていた女と手を切ったことを翔一に話した。亭主持ちのその女と繁夫は高校へ入学した春に性体験を済ませていたことは、すでに聞いていた。 「十八歳にして、女への興味減退かよぉ。あっちのことにアンニュイって感じになってるんさ」 鈍く光る銀の指輪を小指にはめてかったるそうに煙草をくゆらす繁夫は、翔一の性的未体験を遠回しに揶揄しているように聞こえた。 「いっぺんやっちゃうと、こんなもんかってならいね」 翔一はもっそりと言った。繁夫は睫毛の長い三白眼で翔一の顔を除きこむように身をのり出してきた。 「翔一先生、もしやお済みで?」 翔一は身構えて頷いた。 「まさか、淑恵?」 「ちがーよ」 「じゃ麻紀だろ?」 「全然ちがう」 繁夫は派手な格好で目立っていた女生徒を上げた。繁夫に言わせると、学校内で誰某が可愛いのなんのと言ってつき合っているような連中はガキ趣味、水商売の女とか玄人を相手にするのが上級なのだそうだった。 「知らねぇんだよ。一回きりだし」 「はぁ、行きずりってやつか。うまくやってんじゃん。どんな女?」 「元ホステスっていう、ちょっと頭の変なおばはん」 「綺麗?」 「別に。普通」 「どんな感じなん、ねぇ?」 「普通だよ。どうでもいいで、そんなこと。その時の気分じゃん。ガキじゃねぇし」 一瞬だけ繁夫は怯んだ。翔一は自分でも驚くほど落ち着いて答えていた。繁夫のうす赤い唇に意地の悪い嗤いが浮かんだ。 「頭の変なのひっかけたんかい?」 「むこうから声かけてきたん」 「それ、脳梅の色呆けかもよ」 「なに、ノーバイ?」 「脳梅、梅毒が頭にのぼってパーになったやつ」 翔一は鋭い一瞥を繁夫に投げた。どうやったらあんな女に欲望が起こったのか、今となるとわからない。蛮勇をやってみただけだと不遜に開き直ろうとしたが、繁夫の発した脳梅という言葉は、翔一の心に潜む、自分の性の歴史が醜悪な幕開けをしたという嫌悪感を的確に刺激するものだった。まるで繁夫はあの前歯のない女を知っていて、翔一の気取りを嘲っている気すらした。 「翔一先生、要注意。脳梅って、何年も経って発病するんだぜー」 繁夫は翔一に圧せられた失点を挽回しようとでもいうように、嘲りをこめて囃した。 脳梅という言葉に胆を潰した翔一は、東京の下宿へ越してからまずはじめにしたのが献血だった。血液検査の結果は異常なしだったが、繁夫の言っていた何年も経って発病するというのが頭にあったので、献血センターに電話をして脳梅の危険というものを聞いた。電話に出た男は、血液検査で梅毒菌が見つからなかったなら保菌者ではないから脳梅の可能性もなにもないでしょう、と小莫迦にした調子で答えた。感じの悪い受け答えだったが、翔一は嬉しかった。張りのある声で礼を言い、電話を切って笑い声を上げた。それまで時々、性器に豆大の腫れものが出てくるような疼きに不安をかき立てられたが、不透明な心配から綺麗さっぱり解放された。これで心おきなく新しい生活がはじまり、あの女のことを思い出すこともなかった。 * * * * * 電話の音で起こされた。体がだるかった。 「吉岡翔一さん?」 女の声だった。 「タカコさんの息子の翔一さんですね?もうすぐタカコさんの一回忌だけど、ご存知?」 ぼんやりした頭に、まったく知らない言葉が先走りしていた。 「何ですか?」 「タカコさん。あなたのお母さんよ」 「間違いです。うちじゃありません」 「間違ってないと思うわ。あなた、翔一さんでしょう」 「そうですけど、俺のおふくろは、とっくに亡くなってますよ」 「ヨシイ タカコさんが亡くなったのは去年です」 翔一は不機嫌に笑った。 「やっぱり違います。おふくろはヨシオカ ナオコですよ。人違いですね」 「言ってもわからないわね。わたしたち、会えないかしら。会えばわかると思うんだけど」 ブラインドの隙間から見える外は雨だった。外出する気分ではなかったが、しゃがれ気味の声で非現実的な話をする女に翔一はいくぶん興味を惹かれていた。 「どこで会うんです?」 「新宿に来れる?」 昨夜の苑加と会いそびれたこともあり、新宿と聞いてうんざりした。場所を指定して電話を切ろうとする女に名前を聞くと、女はユウと名乗った。 高層ビルの展望コーナーに五分ほど遅れて行くと、大きなサングラスをかけたショートカットの女がいた。 「翔一さんですね? ユウです」 しゃがれ気味の声、年は翔一と同じくらいに見える。紺のTシャツに同じ色の細身のパンツをはいて、白い折りたたみ傘を持っていた。 ユウは喫茶店に入ると、窓際の席に一直線に向かった。後ろについて歩くと、じめじめした季節には新鮮な涼しい香りがした。 コーヒーを注文すると、ユウはサングラスをとった。ちょっときつい感じの大きな目が現われた。 「よく降るわね」 雨がそれほど嫌という風ではなく、ユウは明るい灰色に煙る遅い午後の街を見下ろして煙草を咥えた。唇は中ほどが盛り上ったいい形をしていた。三粒のダイヤモンドの下がったペンダントが紺のTシャツの上で光っていた。爪を珊瑚色に塗った手には、揃いのダイヤモンドの指輪が嵌められている。 「誰から俺のこと聞いたの?」 ユウは翔一の顔を少しの間見つめていると、自分の眉間のあたりを撫でるように示して見せた。 「やっぱりこのへんが似てるわね。タカコおばさんに」 「だから知らないって、そんな人。俺のおふくろはとっくの昔に病気で死んでるんだから」 「確かめたの?」 「確かめるも何もないよ」 「だから、死んだのが本当なのか、ちゃんと確かめたのかって聞いてるのよ」 「バカバカしい。そっちこそ、一体何を証拠にそんなこと言ってるんだ?」 ユウは水滴のついたクリーム色のバッグからなにか取り出してテーブルの上に置いた。黒い縁がついている葉書、葬儀通知であった。去年の日付で、由井尚子と記されている。 「これが? おふくろの旧姓と同じ字だけど、おふくろならユイ ナオコだよ」 「歳はどう?」 享年四十四歳。数えてゆくと、確かに母親と同じ年になった。 「歳まで一致してるでしょ。妙だと思わない?」 「別に。思わないけど」 ウェイターがコーヒーを運んできた。ユウは火をつけたばかりの煙草をガラスの灰皿に押しつけて消した。 翔一がもの心ついた時、すでに母親は亡くなっていた。写真は三枚ほど残っていた。一枚は赤ん坊の翔一を抱いて笑っているもので、卵形の輪郭をした優しそうな顔だった。母親のいない寂しさはあったが、家には祖母がいて、よく面倒をみてくれていた。母親のことを聞くと「翔ちゃん、おばあちゃんじゃ嫌なんかい?」と聞き返され、そんな時の祖母は子供心にも悲しい表情をしているのがわかったので、小学校に行くようになると母親のことはあまり口にしなくなっていた。それにクラスにはたいてい一人や二人は親と死別した子供というのがいたから、自分だけが不運なわけでもないのだと思うようになったのだ。 万が一、去年まで母親が生きていたとしたら、そんな重大なことをなぜ知らずにいたのか。父親が隠していたというのは考えられない。あんなものに頓着しない性格で、もし離婚したならしたとはっきり言っているはずだ。まして偽った名前を教えるなど。翔一は携帯電話を取り出した。 「どこへかけるの?」 「うちだよ。聞けば一発でわかるだろ、そんなこと」 電話を耳にあてて呼び出し音を聞きながら、翔一はユウの顔に緊張が走ったのを見逃さなかった。やはり根も葉もない話なのだ。バレると思って蒼くなったか。聞けば即わかることなのに、かなり莫迦だ、この女。 「もしもし。翔一だけど、いる?」 ユウはきつい感じの大きな目で翔一を見据えていた。 「ああ、じゃあまたかけるわ。ちょっと聞きたいことがあったから。はい、それじゃ」 翔一が電話を置くと、ユウの表情は余裕を取り戻していた。 「親父、会社の旅行で明日の夜までいないってよ」 「誰が出たの?」 「親父の奥さん、二度目のね」 「その人じゃわからないの?」 「さぁね。俺の知らないことを知ってるとは思えないな。おふくろが去年まで生きてたなんて、葬式を出した親父ですら初耳だろう」 翔一の皮肉に、ユウは中ほどが盛り上った形のいい唇を歪めて微笑んだ。なにかと目をひく唇だった。魅力を感じるのとは違う類の気にかかり方だった。 「あんたさ、どうしてこんなこと俺に言ってくるわけ?」 「真実を知るべきだと思うからよ。母親としてみたら、息子がいて、その息子に自分というものは存在してないなんて、あまりに憐れじゃない。あなた、逆の立場だったらどう思う?」 「知らないよ。というか、そういうのは成り立たないね。だってそのヨシイ タカコって人、俺と全然関係ない人だし」 「やれやれ」 ユウは肩をすくめて、クリーム色のバッグの中を探った。 「自分で確かめてみることね」 テーブルの上を滑って紙切れが一枚差し出された。印刷物の切れ端のようで、〇〇病院とあった。 「なにこれ?」 「タカコおばさんのいた病院」 「病院?なんで病院に聞くの?」 「彼女が最後にいたところだからよ」 「そんなところに聞かなくたって、その人の家に電話して聞けば済む話じゃん。その人の家族は?」 「一番血のつながりがあったのは、息子のあなたなの」 頭を押さえつけるようなユウの言い方は、ひどく神経に障った。 「しつこいな。いい加減にしてくれよ。無駄だよ」 「まずは確かめてみなさいよ。直接そこへ行ってみるのがベストだから。わたしもこんな雨の中、作り話をしに来るほどもの好きじゃないわ」 顎をつっと上げ、見下すような斜めの視線を翔一に投げてユウは言った。 「そこに行けばわかるはずよ」 「結局、人違いってわかったら、どうしてくれるんだよ? 俺一人、くだびれてお終いだったってこと?」 翔一は過去形を強めてつっかかった。 「そしたら、どうにでも償うわ」 ユウはバッグからマッチを出した。 「これ、わたしの連絡先」 赤に金の飾り文字でクードポールとある下に、電話番号が書かれている。住所は新宿の場末だった。 「何の店?」 「ストリップショウのある店」 「あんた、ストリッパーなの?」 「ちょっと前まではね。今はマネージャー。ダンサーが足りなくなると急遽出ることもあるけど」 しゃがれ気味の声で歯切れよく答えると、ユウは新しい煙草に火をつけた。ストリッパーというのは、普段もっと派手な格好をしているのかと思った。ユウは身につけているアクセサリーはなにげなく高価そうなものの(本物であればだが)、染めてもいないショートカットの髪に上下紺の服装はブティックの店員という方が合っている。見たところ胸も薄く、どちらかというと高校の女子陸上部員のような体系だ。 「ねぇ、今のお母さんてどんな人?」 裸体をくねらせて踊るユウの姿を想像するのは難しかったが、髪を後ろで束ねた化粧っ気のない義母可奈子の姿は簡単に思い出せた。 「普通の人だよ」 「優しくしてくれた?」 「一緒に住んだことはないよ。俺が下宿するのと入れ違いに家へ来たから」 ユウは二、三度頷いて、何も入れていないコーヒーを啜った。 「その人、あなたのお父さんと結婚してしあわせそう?」 「年いってから再婚した同士だからね。落ち着いてる」 「その人、前はどうしてたの?」 「知らないよ。興味ないし。なんでそんなこと聞くんだよ?」 「なんとなく。あなたの家って、どんなだろうと思ったから」 そう言うと、ユウは窓の外に視線を投げ、青みがかった灰色に煙る街を見つめた。きつい感じの目元にアイシャドゥの加減で仄かな光が浮き上がっていた。翔一は急に心もとなくなった。自分は下に広がる街の中の一角にいて、ユウに高みからずっと見られていたような感じだった。 「あんた、タカコって人のなに? 娘?」 そう、あなたの姉、或いは妹です、とユウが言い出すのかと思い、翔一は嗤う身構えをしていた。 「娘じゃないわ。死ぬ前に少し知ってただけ」 ユウは半分も吸っていない煙草を灰皿に押しつけて消した。 「話したかったことはこれだけよ。出てきてくれて、どうもありがとう」 ユウはさっさと席を立ち、流れるようにレジで勘定を済ませて店を出て行った。最初から最後まで女に場を牛耳られ、納得のいかないまま後に残されて、翔一は屈辱的な気分だった。一方的に聞かされた戯言に取り合うのは莫迦らしいというのはあったが、このことをはっきりさせるまで、ユウは何度でもアプローチしてくるだろうと思えた。もっと言えば、押し付けられるようにして話を聞かされた仕返しをしたい気持ちが湧いていた。そのためには、母親とヨシイ タカコとやらが別人であることを証明するしかない。まず〇〇病院なるところに一体なにがあるのか確かめなければならない。しかし、その過程がすでにユウの思惑なのだと思うと、いちいち癪にさわってし方なかった。 * * * * * 多摩のはずれのM駅についたのは、翌日曜の遅い午後だった。雨が降っているのでうす暗かった。翔一はとっととヨシイ タカコの件に決着をつけたかった。土曜日にユウと別れてからなにかが心にひっかかっていた。触れようとすればのらりくらりとすりぬける、息苦しい重いガスのような想念だった。それに纏わりつかれて過ごすのは、そうでなくとも苑加のこともあったため、翔一をますます苛立たせた。 病院は駅前から伸びるのんびりした道路を歩いて12,3分、雨で一面に湿った畑の向こうにあった。四角の白い建物は、まわりになにもないので大きく見えた。 昨日電話でヨシイ タカコのことを問い合わせた時、長い間待たされた後に浅井という女性が出て、どういう関係かと聞かれた。 「一応、親戚にあたる者といった感じです」 翔一が間の抜けた返事をすると、浅井はそれ以上聞かず、翔一の訪院を承諾した。 受付前のロビーで三十分以上待って、よくやく浅井は現れた。グレーのスーツ姿で、ケアスタッフのチーフと名乗り、挨拶の頭を下げた。齢は五十前後、痩せていて、笑うと目尻に柔和な皺ができた。 浅井に案内されたのは事務机のある個室であった。浅井はどこかに電話をして「浅井ですけど。うん、お見えになったから来てね」と言って切ると、小さいガラスのテーブルを挟んだソファに翔一と向き合って座り、あらためて会釈した。 「あなたとお電話で話したすぐ後、葉月さんからもお電話がありましたよ」 「葉月さん?って誰ですか?」 「葉月さん、ご存知でしょ」 浅井はちょっと目を見張るようにして翔一の顔を覗きこむように見た。 「いえ、知らないですけど」 「葉月さん、夕奈さんですよ。尚子さんが亡くなる前に、何度か面会にいらしてた。血は繋がっていないけど、親戚だと仰ってました。若いきびきびした綺麗な方。葉月夕奈さん」 翔一は「ああ」と言って頷いた。ユウに違いなかった。すでにユウが浅井にいろいろ話しているのだろう。悪意のこもったいたずらの先手が、蜘蛛の古巣のようにはりついてくる不快さに眉を顰めた。 「葉月さんは、何と言ってましたか?」 「いえ、別にこれといって。由井尚子さんのことがいろいろ聞ければ、吉岡さんも助かるでしょうって、それだけです」 形のいい唇を歪めて余裕を見せつけるように嗤っていたユウの姿が思い浮かんだ。 「吉岡さんも、由井さんのご親戚なんですよね」 「はい。でも僕は会ったことはないんです。住んでいるところが遠かったですし、長い間行き来のない間柄でしたから。タカコさんが死んだことは他から聞いて知りましたもので、家の者代表で僕が伺った次第です」 翔一は前の日に考えておいた台詞を言った。途中で抑揚が変になったのは自分でもわかったが、浅井は理解をこめて深く頷いていた。 「由井さんのお家は、なにかと難しいようですものね」 目を落として膝に置いた手の甲を片方の手でゆっくり擦る浅井を見て、翔一はほんの少しだが演技の緊張が緩んだ。 「タカコさんは、何の病気だったんですか?」 「亡くなったのは、肺炎でした」 「どれぐらい入院してたんですか?」 「十四年ですね」 「十四年も。そんな長い間入院していたのですか?」 驚いている翔一に浅井は戸惑った目を向けたが、すぐなにか気づいた風に頷いた。 「そのこと、ご存じないのね」 浅井はまた目を落として、膝に置いた手の甲を擦った。 「尚子さんね、精神科の患者さんだったんです」 ドアがノックされ「チーフ、失礼します」という声と一緒に、薄いブルーのエプロンを着けた小太りの女が、お茶をのせた盆を持ってせかせかと入って来た。浅井の表情に、親しい者に見せる安堵の明るさが射した。 「こちら、ケアスタッフの佐々木美千恵さんです。この人が尚子さんの身の回りのお世話をしていた人です」 佐々木美千恵はテーブルの上に三人分のお茶を置くと、浅井の隣に座って翔一に軽く頭を下げた。年頃は浅井と同じくらいだが、物腰に柔らかさのある浅井と並ぶと、野暮ったさが目立った。 「美千恵さん、尚子さんのケアをどれくらい受け持った?」 「四年ですね。前の中林さんが辞めてからだから、そう、丸四年ですよ」 はっきりした大きな声で答えると、美千恵は少し身を乗り出し、小さな丸い目を張るようにして翔一の顔を見つめた。 「あら、まさか息子さん、じゃないですよね?」 「違います」 翔一の首筋に馴れ馴れしく息を吹きかけられたような嫌悪が走った。 「いえ、尚子さんに目のあたりが似てるようだから。なんとなくねぇ」 上下に金歯の入った口を広げて美千恵はにやついた。浅井は美千恵のあけすけさを困ったように笑った。 「吉岡さんは尚子さんのご親戚なんだけどね、尚子さんが亡くなったのは知らなかったそうよ」 美千恵はそうだろうという呆れの混じった表情で浅井に頷いた。 「美千恵さんはこの近所の人だから、由井さんの家のこともよく知っていますよ」 美千恵が部屋に来てから空気が変わっていた。病院の無機質に白い事務的な匂いが消えて、田舎の近所同士がする世間話風とでもいう雰囲気になっていた。あけっぴろげでなんでも気兼ねなく尋ねられるものだったが、その野鄙な明るさに翔一は無数の刃物が体にあてられているのを照らされたような身震いがした。 音をさせてお茶を啜る美千恵を視界に入れず、翔一は浅井に向かって話した。 「タカコさんは、どんな状態だったんですか?」 「一人で日常生活をするのは、難しかったですね。ケアが必要でした」 「お母さんが生きている時は、毎日来て娘の面倒をみていたんですよ。だけどお母さんもずいぶん前に亡くなってしまって、それからは病院の世話だったんです」 美千恵が口を挟んだ。 「他の家族というのは?」 浅井に向かって話し続ける翔一に、美千恵は手を車のワイパーのように振ってみせた。 「面会に来たこともありませんよ。あの家は、必要なお金は払うから、面倒は全部頼むっていう態度なんです。尚子さんが亡くなった時だって、引き取りからお葬式まで全部葬儀屋任せだったんですから」 大きな声が部屋に響いた。突然、足に爪を立てられたようなひき攣りが起こった。翔一は咄嗟に足の裏を反らせて、ひき攣りをやり過ごした。 「尚子さんに会いに来た人というのは、葉月さんだけだったんじゃないかしらね」 浅井が穏やかな声で言うと、美千恵はせかせかと頷いた。 「そうですそうです。亡くなる前の半年ぐらいでしたけどね。葉月さんは、尚子さんがここにいるのを知らなかったって言ってましたよ。毎回、わたし達のことも気遣って下すってねぇ。若いのにすごく気配りがある人でした。尚子さんと一緒にいると、実の娘さんみたいでしたよね」 一体、ユウはタカコとどういう関係なのだろう。親戚筋にしても血が繋がらない程度で、家族にすら見捨てられていた狂女をそんな親身に慕うなんて。その不可解さと相反して、ユウが真実を知っているという確信めいたものが、どうしようもない重さで立ち塞いできた。 翔一ははじめて美千恵に顔を向けた。 「タカコさんの息子という人は、どこにいるんでしょうか?」 思いも寄らないことを聞かれて、美千恵の小さな丸い目が小刻みに瞬いた。 「その人のこと、何か知りませんか?探しているんです」 「ううん… 」 低い声で唸ると、美千恵は首を傾げた。 「尚子さん、お嫁に行って子供ができてからああなっちゃったみたいで、それで実家が引き取ったんだけど。旦那さん方とは、とっくに縁も切れているはずです」 「旦那さんの苗字とか、わかりませんか?」 「さぁ、わかんないですね」 美千恵は首を捻って浅井を見たが、浅井もゆるゆると首を振った。 「尚子さん、時々息子さんのこと話してましたけどねぇ。何の話なんだかまるでわからないけど、名前はね、シュウちゃんだったかショウちゃんだったか、そんな風に言ってましたよ」 突然、部屋に警報器の音が響いた。美千恵は浅井と翔一を交互に見て立ち上がった。 「なんだろう? わたし、ちょっと見て来ます」 せかせかとした足取りで美千恵が部屋から出ると間もなく、警報器は鳴り止んだ。 「きっと間違いですよ。たまにあるんです」 浅井は翔一の顔に表れた不安を見てとったのか、宥めるような調子をこめて言った。翔一はどさくさに紛れて慌しく別れの挨拶を済ませた。警報器の音で、本当の動揺が偽装されたのはせめてもであった。 (続く) |
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