伽羅創記

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zoom RSS 佐渡 −晩夏夢語り 3

<<   作成日時 : 2016/08/30 16:13   >>

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  八月の佐渡は、能楽好きにはたまらんなー。なんたって、島のあちこちで薪能や夜能を催していて、しかもそのほとんどが神事として奉納する意味があるため無料だというのだ。  この日は、金井能楽堂の世阿弥供養祭能楽大会へ行った。


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 途中の道、義叔母が畑野にある長谷寺(ちょうこくじ)を案内してくれた。拝殿まで長い長い石段を登る。
「五月なら、この階段の両脇に牡丹が咲いてとっても綺麗よ。京都風のお寺だってよく言われる」
 義叔母は畑野の出身だった。牡丹は咲いてなくても、充分素敵なお寺だと思う。
 佐渡の古い建築は、たいてい杉材を使っている。ささくれて白茶けた羽目板は、夏しか訪れたことのない者は知らない、湿った雪雲に閉ざされる重い冬をうかがわせる。











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 石段を登りきると、杉の巨木の間に三重塔があった。庭に無数の小さい身代わりお地蔵が祀られていた。長い石段を息を切らせ、ここへお地蔵を納めるのは、それが代わりに悲しいことを遠くへ持って行ってくれるからだろうか、それとも、代わりに行って幸福を持って来てくれるからだろうか。あるいは、その両方かも知れない。















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 金井能楽堂に着いた。この塀の濡れたように黒光りしている瓦は能登瓦というもので、佐渡の家で見ることが多い。つやのない杉材とは対照的で面白い。










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 野外の薪能みたいに雰囲気はないだろうと思っていたけど、どうして、能楽堂の立派な舞台も素晴らしい 舞囃子、仕舞が終わると、いよいよ能「経政」がはじまった。
 はじめに僧が登場するのは、昨晩、二宮神社で観た「鵺」と同じ。で、主人公の亡霊があらわれるのも同じ。しっかし経政の面(マスク)は美しかった〜。イケメンとはこのことだぁね。琵琶の名手で、平家一門のうちでも風雅の道に丈けた貴公子が見事に立ち現れた。舞う姿の優雅さ、クールな袖さばき、ただもう、うっとり。
 
(経政−解説)
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_042.html



画像 つい最近読んだ福田恆存「藝術とは何か」で、たいへん印象深かった所論がある。

『演戯するとは、真に自分自身になることであります。演戯しようという慾望は ―自分自身になろうとする慾望は― ありのままの自分であるだけでは気にくわぬというところに発生します。これは罪の意識にほかなりません。ギリシア悲劇がすべて人間の罪をめぐって展開されたゆえんであります。ギリシア人はありのままの自分をはっきり凝視しながら、同時に、本来の自分はこんなはずではないと信じた。人間は美しいというのが、ギリシア人の根本観念だったのです。そこで、かれらはふてぶてしいことをおもいついた。というのは、本来は人間は美しいのだという信仰のもとに、罪のために穢された人間を演戯しようとしたのであります。』

『アリストテレスは当時のアッティカ悲劇が観衆のうえにはたしている効用をつぶさに観察して、それが《恐怖と哀憐》の感情のカタルシスにあると断じたのであります。悲劇はまず《恐怖と哀憐》の情を観衆のうちに刺戟します。それを喚起し醒まします。そうすることによって、この感情を舞台いっぱいに動きまわらせ、そのあげくのはてに、それに死の宣告をくだし、舞台から放逐する―それが浄化作用であります。ここにあきらかなことは、観衆は舞台を見ているのではないということだ。かれらはなにかを見、なにかを知るために円形劇場に集まってきたのではない。療治をうけにきたのであります。芸術は、芸術家とってのみならず、鑑賞者にとっても行為であります。』

 佐渡で観た能は、この考察に実体験を与えてくれるものだった。キリスト教では、人間は生まれながらに「原罪」を負っている存在だから罪を犯すとされる。しかしアダムとイヴの子孫ではない私たち日本人は原罪を負っておらず、国際政治の場で性善説から失敗ばかりしてきた国民としては、人間は本来美しいという古代ギリシアにより親和性を感じる。
画像 本来美しい人間であるものが罪を犯し、それがどうにもやるかたないというのであれば、感情の解放としてカタルシスが必要となる。帝を悩ませて退治された鵺、風雅人には相応しからぬ修羅道に堕ちた経政、いずれも仏僧の回向によって慰められ舞台から消える。(ストーリー上でのカタルシス) 役者は異形の面をつけ、罪と苦悩の乱舞を踊ることで罪のなせるあさましい姿を究極まで体現して、一種のトランス状態に入る。(役者のカタルシス) 観劇する側は演じられている役に自己をトランスミッションし、畏れと憐憫をもって人間の業という形而上的命題を理解する。(観客のカタルシス) ただし、言うまでもなくこれが成り立つには日本人の間に「人間とはいかなる存在か」に対する共通了解があることが条件だ。ポストモダンなんていう思想ファッションが、あらゆる価値を相対化し無力化を試みた後の今となってはなぁ...

 しかしそれでも、福田恆存の所論は佐渡の能において私が直に実感したものだった。
『芸術作品において意味などというものは第二義的なものであり、たんなる副産物にすぎません。古典がつねに新しいゆえんは、それが人間性の本質に通じたカタルシスの効果をもっているからであります。浄化排泄の作用は一度だけですむものではなく、何度でも要求されるものだからです。
(中略)われわれは雪舟をみたあとでは油絵が見たくなり、近代小説を読みあきたあとでは、古典劇に憧憬を感じる。そういうものだ。われわれはかならず飽きます。が、一か月後、一年後には、ふたたびその作品を求めるようになるのです。』





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