琵琶奥傳許可、あらためて所信表明

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  三年前に日本へ帰国して間もなく薩摩琵琶を習いはじめた。そしてこの十月、念願の奥傳を許されました。
自分でいうのもなんだが、上達は早かった。初傳になったあたりで、最短コースの三年で奥傳に行けるのでは、と思っていた。猛練習したわけではないが、毎日は弾いていた。自然と弾きたくなるのだ。ということは、私は琵琶が好きなのだろう。

 奥傳になったからといって、何が大きく変わったわけでもない。実は今、スランプって感じなのである。音程がズレてくることがよくある。以前は気づかなかっただけなのかも知れない。辛抱強く原因を探らねばならない。そう簡単ではないかも知れないが、抜けられないトンネルではないと思う。
 私の所属する錦心流一水会の本部が催す定期演奏会に出演するのが奥傳以上なので、土俵に上がる資格はもらったが、その分、拙い演奏はできない。なにより、もう一切の言い訳、避けられぬ外的要因で練習が充分できなかったとか、体調が良くなかったとか、舞台で弦が切れてしまうアクシデントであっても、演奏の拙さは全部、自分の責任だ。それが、奥傳からの心得だと思っている。

 来月、私の所属する支部が三年ぶりに発表会をする。三年前は入門したばかりだったので、手伝いで行っていた。先輩方の演奏を拝聴して、私も早く上達しようと思った。今度は、奥傳になって出演するのだから、まさに石の上にも三年だなぁ。
琵琶は趣味というより、求道という気持ちでやっている。琵琶を好きな気持ちは、誰にも負けないつもりだ。


 「玄象(げんじょう)」という能があることを知った。玄象とは、平安時代に藤原貞敏が唐の都から持ち帰った名器の一面と伝えられる。能「玄象」のあらすじを読むと、なんだか私への戒めのようにも感じられるところがある。そもそも琵琶はものがたり(バラード)であり鎮魂(レクイエム)なのだから、俗世の人間の慢心、驕り、エゴを持ち込んでは行くものも行かぬ。琵琶を演奏することは己を知ること、知って己を超えること、琵琶を奏でる時は、無我の境地に入りたい!


「玄象」解説 http://www2.odn.ne.jp/nohnopage/arasuji/genjo.html





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