伽羅創記

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help リーダーに追加 RSS 淫雨 [後編]

<<   作成日時 : 2008/06/16 13:56   >>

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  車窓を曇らす夕方の蒼い雨は、遠い時の空白にも降っていた。気がつくと、あと二駅で新宿だった。翔一は多摩の病院を出てからずっと、一つのことを繰り返し思いおこしていた。今やすべて嘘くさく、すべて真実くさかった。
 鬼火のように虚空に浮かび上がった記憶には、時間感覚も脈絡もなにもなかった。どこもかしこも白かった。その白い部屋にはベッドがあって、髪の長い後姿が座っている。翔一は父に抱かれていた。父親は祖母ぐらいの年の人と話していた。部屋全体をぼんやり見ていると、ベッドの上の後姿が振り向いた。翔一を見て顔中で笑った。若い女の優しい笑顔だった。次の瞬間、女はふらっと立ち上がり突然摑みかかってきた。女は翔一の足をもぎとる勢いで引っ張った。父親は女から翔一を離そうと身を捩り、翔一は痛さと恐ろしさに悲鳴を上げて泣き叫んだ。祖母ぐらいの年の人が必死で獣じみた声を上げる女を止めていた。その後どうなったか憶えていない。ただ「オニババ、いやだ。オニババ、怖いよぅ」と泣きながら父親に訴えた記憶は薄々とある。熱のある時にみた悪夢の切れ端のようだったが、足に爪を立てられ攣ったような緊張が生々しくよみがえった。
 あの女がヨシイ タカコで母親だとでもいうのか。それならユイ ナオコはどうなる? 突然、翔一はある事実に気づいた。記憶する限り、母親の旧姓がユイ ナオコだと翔一に教えたのは、ずっと面倒を見てくれていた祖母だった。
「おばあちゃんじゃ嫌なんかい?」
 と悲しそうに微笑んでいた祖母なら、翔一に発狂した母親より、優しく死んだ母親を与えるかも知れない。だがそうなら、父親が何も言わずにいたということがあり得るのか。どこを向いても、雨がいまいましく視界を曇らせていた。
 新宿駅で電車を降りると、翔一は人混みに揉まれながら携帯電話から実家に電話をした。多摩の病院を出てから三度目だった。今度も誰も出なかった。電話を切ってズボンのポケットに入れた途端、ベルが鳴り出した。
「もしもし?あ、わたしだけど」
 ひどい雑音に紛れた苑加の声だった。
「あのなぁ、おととい、俺は待ち合わせの喫茶店に行ったぜ。仕事で遅れたけど。俺からそっちに連絡ができないんだから、待ってる時に電話ぐらいしてこいよ」
 翔一は吐き捨てるように言った。苑加は何か言っていたが、ザーザーという雑音とひっきりなしに途切れる声で聞き取れなかった。
「なに?聞こえないよ。どうするんだよ?」
 苛立って語尾を強めた翔一を、太った中年男がすれ違いざまに一瞥していった。
「今日、同じ店に来れる?」
 かろうじて聞き取れた。
「行けるよ。あのA銀行の横の店だろう。半地下になってるところの」
「そう」
「俺は今ちょうど新宿にいるからすぐ行くけど、そっちはどれくらいで来れる?」
 翔一は電話を耳に喰いこませて、苑加の声に神経を集中した。
「わたしも30分以内で行けると思うわ。店で待ってて」
 電話が切れても、ザーザーという雑音がしていた。
 翔一は東口を避け、新しく明るい雰囲気の南口へ向かった。気温は高くないが、じとじとと纏わりついてくる湿った空気のため、シャツが不快にはりついた。
 外に出ると、鈍色の空にビルの灯りが水に沈む夜光虫のように霞んで溶けていた。ページをめくるように変わるネオンが、ビニール傘に透けて映った。雨水が下水に流れ込む交差点で、翔一は六十年も多く生きたかのように疲れていた。このままアパートに帰り、ベッドに倒れこみたかった。だが苑加にはなんとしても会って、ことの経緯を聞かねば気が済まない。理由もわからず宙吊りにされた状態でひと月、もはや耐えられなかった。金曜日から降りづつけている雨は、耳障りな電話の雑音のように暗いアスファルトにはね返って、一日中乾く間もないズボンの裾をまた濡らした。

 二時間近く待ったが、苑加は現れなかった。自分ではどうにもならないものに振り回され、なに一つ得られない最悪の日を過ごし、翔一は困憊していた。油っぽいスパゲティと三杯のコーヒーでもやもやする胃から上ってくる噯が、焦げた怒りを運んできた。今苑加が現れ、たとえ耳を揃えて金を全額返してきたとしても、これまで虚仮にされたことの怒りは治まるものではない。翔一はポケットから携帯電話を取り出し、親指の先で虫でも潰すように実家への短縮ダイヤルを押した。これで六度目だった。今度はすぐに電話が取られた。出たのは可奈子だった。父親はまだ旅行から帰宅していなかった。
「自分で確かめてみるのね」
 カップの底の冷めたコーヒーから、形のいい唇を歪めて嗤うユウの乾いた声が聞こえるようだった。どす黒い反逆心が沸いてくるのが感じられた。木っ端のように翻弄されるのはもう我慢がならなかった。今度は仕掛ける番だ。主権を取り戻そうとする意志に呼応し、生命は皮膚の下を微かな痺れとなって広がっていった。青白く点った焔が、無力感に沈んでいた血を焚きつけた。思考より衝動の暗い熱が勝っている間に、ユウに会って決着をつけたかった。翔一は冷めたコーヒーを出陣の杯でもあるかのように飲み干して席を立った。
 雨は霧のように細かく降り注いでいた。翔一は靖国通りから御苑の方へ足早に向かった。店に傘を忘れてきたのに気づいたが、引き返す気はなかった。

*  *  *  *  * 

  店の入り口に客引きの姿はなく、代わりに若い女が二人で立ち話をしていた。どっちも似たような黒いスリップドレスに似たような化粧で、双子のようだった。女の一人にユウを呼んでくれるように頼むと、女は翔一を頭のてっぺんから足の先まで見回してにやりとした。
「ユウさんなの?他にも女の子いるよぉ。中に入れば?」
 舌足らずに言う女に翔一は苦笑して、首を振った。女は派手な化粧をほどこした子供っぽい顔をつんとさせて「ちょっと待ってて」と言い、もう一人と一緒に店に入って行った。
 ずい分経ってから出てきたユウは、膝下丈の玉虫色のボディスーツに、瞬くと風がおこりそうなつけ睫毛と赤毛の鬘をつけていた。翔一を見るなり「ついて来て」と言った。涼しい香りをたなびかせるユウについて隣のビルとの間の隙間を抜けて行くと、店の裏の車が三台ほど並んだ細長い敷地に出た。
「あーあ、日曜は閑だわ」
 ユウは小さく欠伸をして、車庫ともいえない傾いたトタン屋根の下に停められている白いフィアットにもたれかかった。翔一の額に水滴が落ちてきた。見上げると屋根の雨樋がへし折れていた。
「どう?タカコおばさんのこと、わかった?」
「ああ。全部わかった」
 暗い電灯をうけて、口紅のたっぷり塗られた形のいい唇が冷たく微笑んだ。むき出しの肩に羽織った黒いビニールジャケットのポケットから、ユウは煙草を取り出した。湿り気の所為か、ライターの火がなかなか点かなかった。
「今度はあんたのことを教えてくれよ。一体何者なのか。そっちも自分のことを言わないと、フェアじゃないだろう」
「まぁね。別に隠してなんかないけど」
 空に向かって、煙が一直線に吐き出された。
「あなたの今のお母さんね、娘が二人いたのよ。知ってた?」
 可奈子の上の娘は前の夫の方について行って音信不通だと聞いていた。
「あんた、娘なの?」
「そう」
 中ほどが盛り上った形のいい唇が気になったわけがわかった。ユウにはある華やかさがないため目立たないが、あれは可奈子の唇、可奈子の連れ子の真奈美と同じ唇だった。
「アノヒトがあなたのお父さんと結婚した成り行きって、どう聞いてる?」
「どうって、子持ちの独り身で、俺の親父も子持ちの独り身だったし、気が合ったから結婚したんだろう」
 ユウはにやりと口元を歪めた。ユウの相手を見下すような嗤いは、初めて会った時から押さえつけるような侮蔑を翔一に与え、的確に苛立たせた。
「なにか秘密でもあるっていうのか?」
「そうじゃないけど、アノヒトも相変わらずなんだろうなと思って」
 しゃがれ気味の声が、歯切れよく言葉を刻んだ。
「うちの親は仲が悪くってね。わたしは父ともアノヒトとも折り合いが悪かったわ。いろんなことで嫌気が募って、高校2年の夏に家出したのよ。たいして悲惨な目にも遭わず、それなりに生きてこれたわ。五年ぐらい経って家族のことが気になって、それで家に行ってみたのよ。そしたらないの。家がなくなってたの。なくなったっていうか、知らない人が住んでた。うちの家族のことは、何もわからなかったわ。それで手っ取り早く探偵事務所に頼んだの。いい金取られたけど、すぐに見つかったわ。父は市の介護施設に入ってた。汚い所で、わたしのこともわからないほど頭がイカれちゃっててね。アノヒトと真奈美の居場所もわかった。ついでにあなたの家のこともね」
 半分が霞み、もう半分が妙に澄んでいる頭で、翔一はユウの話を必死に辿っていた。
「じゃあ、親父と結婚した時、可奈子さんはまだあんたのお父さんと離婚してなかったのか? だけどおかしいよ。それじゃ籍を入れるのに、」
「離婚してたわよ」
 ユウは翔一の言葉を遮った。
「わたしが家出した後、父がおかしくなったみたい。それまでにも兆候はあったんだけどね。それでアノヒトも、そんな人間の面倒なんか御免だってなったのよ」
 深々と煙を吸い込むと、ユウは半分も吸っていない煙草を足元に落とし、金のサンダルで捻るように踏んだ。
「別れるならとっくに別るべきだったのよ。家の中はすでに壊れてたんだから。父もアノヒトもずうっと、うちは何の問題もありません、ていう芝居をしてた。わたしの家出だって、留学させたなんて言ってたぐらいだからね。亭主がおかしくなって、ついに劇が続かなくなったってわけ」
 ほんのわずかだが、終始余裕を見せつける歯切れのいい声が荒げられた。翔一と目が合うと、ユウは感情のぶれを自嘲するように微笑み、赤い鬘の前髪を軽くはらった。きつい感じの目元が覗いた。 
「今、お父さんは?」
 そう聞いた時、寝呆けた小鳥のように携帯電話が鳴った。翔一は反射的にズボンのポケットに手を当てた。鳴っていたのはユウの電話だった。
「死んだわ。私が介護施設で会ってから半年もしないうちにね。死んでよかった。なにより父本人に一番よかったわ。本当にそう思う。アノヒトにも、死んだこと伝えといて」
 ユウはそう早口で言い終えると、上着のポケットから電話を取り出して電話を耳にあてた。湿った静寂の束の間、へし折れた雨樋から水滴が肩にぼつりと落ちた。
「うん、わかった。はい」
 それだけ言ってユウは電話を切ると、車にもたれかけていた体を起こした。
「店でわたしを探してるから戻るわ。あなたもご苦労様でしたね。それじゃ」
 涼しい香りが鼻先をかすめた。ユウはまっすぐと暗い建物の脇へ消えて行った。

 靖国通りに戻って来ると、街灯のまわりで細かい雨は光を吸いこんで、そこだけ銀の粉が舞っていた。ぬるま湯のような夜に、翔一は身震いを一つした。皮膚に蘇った記憶、あの冬の夕方、弱々しく雪が舞っていた。下宿生活をはじめて三年目だった。父親に頼んで作ってもらった印鑑を取りに駅から実家へ向かう途中の交差点で、曲がり角から灰色のコートの学生がうつむき加減に歩いて来た。
「真奈美ちゃん」
 驚いた不安げな顔が上げられた。
「学校帰り?」
 真奈美は首を振った。
「予備校の帰り」
 その日は土曜日だった。もう正月の飾りつけを外した商店の並ぶ通りは、夕方の中途半端な時間帯で静かだった。
「予備校かぁ。がんばってるね。どこ受験するの?」
 真奈美は決まり悪そうに微笑んで答えなかった。翔一が下宿に移るのと入れ違いに実家に来た真奈美と話をしたことはほとんどなかった。血色の悪いおとなしい子というだけの印象だった。大学受験前で神経質になっているのかも知れなかったが、元々うちとけやすいタイプではなかった。一緒に歩いているとどこか気づまりになって、翔一は声をかけない方が良かったと思った。
「そういえば俺が受験した時も雪だったな。いや、前の日に雪が降ったんだけど道が悪くてさ。靴下も濡れちゃったし、嫌だった」
 翔一は**大の受験へ向かった道を思い出した。どうせだめだろうと諦めていたが、もしかしたらという当てのない希望もあるにはあった。翔一の甘さを嗤うように、雪融け水が冷たく足に染みた。
「雪っていいな」
 やっと聞きとれるほどの声で真奈美が言った。
「雪、好きなの?」
「なんとなくね。雪が積もると、ばらばらになった家族が、なんとなくだけどね、会えるような気がして」
 つかえつかえそう言って、真奈美は気弱な目で翔一を窺った。
 真奈美の前の家は県南にあった。可奈子が離婚して兄夫婦のいた隣の市へ越してきた時、真奈美は中学生だった。県北の片田舎へ転校してきてから、仲のいい友達もいなかったのだろう。どことなく、真奈美は家でも学校でもできない話を翔一に話したがっているように感じられた。
「お父さんとお姉ちゃんは、どうしてるの?」
 真奈美は首を振った。翔一はやはりまずいことを言ってしまったと思ったが、真奈美にいちいち気を遣う羽目になっているのが鬱陶しくもなっていたので取り繕わなかった。
「うちのお姉ちゃん、頭良かったんだ。**大の付属高校だったの」
 突然、今までと違うはっきりした声が聞こえた。真奈美はまっすぐ前を向いていた。翔一が**大を受験したことを真奈美が知っていたはずはない。あれは優秀だった姉を自慢したものだったのか、それとも「うちのお姉ちゃん」が示す、翔一とは血を分けていないという一線を無意識に引くものだったのか。翔一はただ**大という名を聞いて、真奈美の姉は別世界で悠々と暮らしている人種のように思えた。
「お姉ちゃんの名前、なんていうの?」
「ユウナ」
「ユウナ?ふぅん。どんな字?」
「夕焼けの夕に、奈良の奈」
「夕奈か。ちょっと外人ぽい名前だね」
「みんなお母さんの奈がついてる」
 それきり、二人とも黙って歩いた。 
 母親、姉妹が奈という一字を共有することでかろうじて繋がっている。それは主のいない蜘蛛の糸輪のように、細々と空に浮いていた。翔一ははじめて真奈美に同情した。もの心つく前に母親が死んだ自分は、その姿を思い出すこともないだけよかったかも知れないと思った。
 うつむき加減に歩く真奈美の横顔は、縮れた髪が血の気の薄い頬にかかり、今思えば奈の字ともう一つ、母と姉と同じ中ほどが盛り上った形のいい唇が硬く閉ざされていた。家はすぐそこだった。積もりそうにない雪が降っていた。
 真奈美に会ったのは、あれが最後だった。大学が決まり、真奈美は家を出た。都内でひとり暮らしをしていると聞いたが、どこにいるか覚えていない。

 陸橋脇の灯りの消えたファッションビルの前で、翔一はポケットから携帯電話を取り出した。呼び出し音は四回鳴った。
「おぅ、翔一。しばらく。さっき旅行から帰って来たんさ。何度か電話してたってな。どうしたん?」
 久しぶりの父親の声に翔一は身が竦んだ。この二日、父親の帰宅を今か今かと神経を擦るようにして待っていた。それなのに、いざ電話がつながると最後の証言を求める重みが急に圧しかかり、後悔に似た戦慄が走った。
「もしもし、 あれ、翔一? もしもぉし?」
 暢気な声が息子の無言を問うた。 
「おふくろの名前、ヨシイ タカコだったんか?」
「え、なに言った?」
「俺のおふくろの名前。ヨシイ タカコか、キチガイ病院の?」
 電話の向こうで声が途絶えた。
「おふくろは、ヨシイ タカコか?」
 伝わってくるのは、耳に接触するプラスチックのじとつく生温かさだけだった。翔一には、父親の沈黙は耐えられなかった。ものに頓着しない性格であっさり打ちあけられたら、どんなにか救われた。顔が見えないもどかしさにじりじりした。
「ヨシイ タカコなんかよ? 答えろよ」
 真実の法廷において、父親は黙秘を続けるだろう。翔一が立たされているのは被告席だった。問われる罪は母親の肉体から生まれたことか、それとも母親を狂わせたことなのか。 
「クソッタレが。一生ダンマリしてろよ」
 翔一は握り潰すように携帯電話を切ると、ビル入り口の階段に崩れるように座り込んだ。なぜ自分独りが、こうも憔悴せねばならないのか。父親も祖母も苑加も、顔も思い浮かばない母親も、みなそれぞれのやり方で翔一を苦しめていた。その頂点にはユウがいた。翔一はユウに糸で操られ、目を白黒させてギクシャクと滑稽なおどりを踊らされている人形だった。怒りが胸を逆上した。時計は一日が終るまで1時間ほどあった。心臓が騒いでいた。お前には自分を苦しめる根源に一撃する権利があると、まだ何も決まっちゃいないのだと、突き上げるような脈となって告げていた。翔一は立ち上がり苦い唾を吐き出すと、大粒になった雨の中へ踏み込んだ。  

*  *  *  *  * 

 店の入り口には、先刻会った二人の女の片方が立って煙草を吸っていた。翔一がユウを呼んでくれるよう頼むと「さっきのお兄さん」と、酔った鈍い瞬きをした。
「ユウさんさぁ、あの人、男より女がいいみたいよ。知ってんの?あ、お兄さん、もしかしてそういうのが好きな人か」
 濡れそぼった翔一を女はからかう目つきでしばし見つめていたが、フッと鼻で笑い「今、呼んできたげる」と言って店に入った。
赤い鬘を押さえながら出てきたユウは、ずた袋の風情で立っている翔一を見て、一瞬だけ気の毒そうな表情をした。
「タクシー呼ぼうか?」
 翔一は首を振った。
「ちょっと話があるから」
 ユウは頷くと、先に立って建物の脇へ入って行った。
店の裏に停まっている車は、白いフィアットだけになっていた。
「どこかで飲んでたの?」
 翔一は首を振った。
「どうして由井尚子のことを、俺に教えたんだよ?」
 ユウの顔から、わずかに残っていた優しさが波のように引いていった。先刻と同じように、ユウは車にもたれて腕を組んだ。
「真実を知るべきだと思うからよ。人間はみんなね」
「偽善だな」
「そう?まさか、知らない方がいい真実もあるなんて、現実逃避なことを言うの?」
「俺にわかるのは、おまえの言うことが偽善だってことだ」
「真実を知るべきって、正しいでしょ」
「おまえに正しさなんか説く資格ねぇよ。家出したストリッパーのネェちゃんが」
ユウは形のいい唇を歪めて嗤った。
「喧嘩売りに、雨の中わざわざ戻ってきたわけ?」
 翔一は自分の方が背が高いにもかかわらず、ユウに見下されているように感じられた。湿ったシャツの下で、脇下を汗が一筋流れた。毛虫の這うような寒気に鳥肌がたった。
「確かに、由井尚子のことを教えたのは、正しさからばっかりではないかもね。わたし、あんたみたいな人間て大嫌いなのよ。自分のことしか関心がなくてさ、自分に都合のいい限りで人とつき合って、上手くやってるつもりでいる。まぁそれはいいよ。みんなエゴはあるから。だけど最低なのは、あんたはね、自分に都合の悪い人間は存在させないのよ。その人が目の前にいても、存在してないの。あんたが見ているのは、自分でいいように作った世界。そんな茶番はいずれ崩壊するわ。でもわたしはいつまでも待ってられない、早く結末が見たいの。だから崖っぷちから突き飛ばしてやったわけ」
 非の打ちどころのない悪意を湛えた顔で微笑むと、ユウは足元に落ちている口紅のついた吸殻を金のサンダルのつま先で踏みつけた。一挙一動が翔一にはひどく屈辱的だった。
「おまえ、どれほど偉いつもりなんだよ?」
「偉くなんてないわよ。自分の悪さなんかよくわかってる。でもね、わたしは真実を相手にしてるわ。神様じゃない、人間が人間を制裁しようっていうんだから、傷つけるのも傷つけられるのも知ってのことよ。それが真実を相手にするってこと。作り物の世界で生きてるあんたとは違う。アノヒトもそう、同じよ。アノヒトが自分勝手に作った世界の住人を演じるなんて、わたしは御免だわ。あんたたちときたら、真実も作り事もわからなくなってるじゃない。狂ってるのは、あんたたちの方だよ!」
 しゃがれた声がコンクリートの地面に跳ねかえる雨の音に吸い込まれた。むき出しの肩が白く丸い生き物となって荒く息づいていた。勝手な理屈をわめいて、ひとをとことん貶めようとするこの女がいる限り、俺は翻弄され侮蔑される。こいつの力を奪わねばならない。永久に無力にしてしまわなければ、俺は安らげない。俺の生活をこいつに侵されることなどあってはならない… 翔一はユウを突き飛ばし、車の側面に押しつけた。玉虫色のボディスーツの胸元を力一杯引き下げると、初潮をみてからほとんど成長していないような乳房が露になった。  
「なによ、逆恨みで強姦?あんたのやりそうなことね」
 ユウは上半身を捻って体勢を立てようとしたが、鎖骨の上を押さえつけられているため、頭が車の上にそり返ってしまっていた。露出したユウの体から匂う香りは敵意を掻きたて、敵意は欲情を挑発した。翔一は両足でユウを挟むようにして、ボディスーツを臍の下までずり下げた。下腹部が蝋のように白かった。ユウは手をありったけ伸ばして翔一の顎を突き上げてきたが瞬時にはらわれ、肘が鈍い音をたてて車体にぶつかった。黒い針葉樹のようなつけ睫毛の間から、わずかな電灯の光を映した目が青白い憎悪を放っていた。
「あんたみたいな男は、これぐらいのことするだろうと思ったよ」
「じゃあいいんだな。わかってたことなんだからな」
「言っとくけど、わたしは裁判で闘うわよ。徹底的に。世の中にあんたのやったことを暴露するからね」
 組み敷いたユウの体がどうやっても歯の立たない金属になった。裁判という言葉を聞いて翔一ははじめて、今暗がりの中でやっていることがユウと自分だけの憎しみの競り合いではなく、多数の人間の観ている明るみに引き出される行為であることに気づいた。挑めば挑むほど己の矮小さを思い知らされる暗い宇宙に吸い込まれてゆく眩暈がした。翔一が怯んだのをユウは見逃さなかった。みるみる唇がめくれ、これ以上ないほどの侮蔑をこめた嗤いが満面に表れた。嘲りを浴びせられ、翔一は敵意を取り戻した。
「誰にでも股開げてみせるストリッパーが」
「ストリッパーだろうと、無理にやれば強姦なの。わたしは抵抗してるんだから、あんたは強姦してるの。そんなこともわからないのか、このゲス!」
 もう何も考えなかった。やりかけたことに早くけりをつけて終わらせねばならなかった。翔一は自暴自棄な勢いだけを頼りに、カチカチと音をさせてズボンのベルトの留金を解いた。ユウは翔一の体が緩んだ隙間に腕を入れて押し返し、顔めがけて力一杯突いてきた。一撃は顔面を滑って左耳にあたった。爛れるような痛みが走り、どす黒い怒りに血が炙られた。翔一はユウの顎を突き上げ、二度と起き上がれない姿勢まで追い込むと、ボディスーツを恥骨まで引き下げた。
「ギァーぅ」
 ユウの絡まった服に押し込んだ性器の先が、奇妙な肉感をもつ窪みにとどいた時だった。鋭い叫び声が鼓膜をビキビキと震わせた。頭を車の上にのけぞらせたユウが、化鳥のような声を張り上げた。黒い針葉樹のようなつけ睫毛の間から翔一を見下げる目は、明らかに嘲っている。ユウは翔一の罪を世界に知らしめるために、醒めた絶叫を闇に刻印していた。萎縮した翔一の力が緩んだ。ユウはその隙をついて体を立て直すと、肩を激しく上下させ、喉を絞って叫んだ。
「ギァーぅ、ギァーぅ」
 擦れた口紅が血糊のように口の端に滲み、翔一をまっすぐ射る目は呪いを讃えていた。怒りとは異質の、冷たい鋭利な衝撃が翔一を貫いた。殺られる前に殺ってしまおうとする本能が、闇を支配した。骨を挽くような声で叫び続けるユウから翔一は身を離すと、生命が指令する殺意を握り締めた拳を、その顔めがけて打ち込んだ。
 雨の音が消えた。夜の胎内に呑み込まれたような静寂の中、車の側面に胸をはだけて磔にされた体がゆっくり崩れ落ちていった。脚を折り曲げて地に倒れたユウは、発光して白く浮かび上がっていた。翔一を嘲けていた顔は赤い髪に隠れ、顎以外は見えなかった。肋骨の山の間で腹が不規則に伸縮し、全身がびくんびくんと動いた。気味悪く横たわる化鳥から後退りし、翔一は外に向かって走った。

*  *  *  *  * 

  日曜の深夜だからなのか雨空だからなのか、新宿はゴーストタウンのように人通りがなかった。息が続かなくなるまで疾走した後、翔一の足は地についた感触がなかった。重力に見放されたような、寄る辺ない歩みであった。携帯電話が鳴った。翔一は凍りついた。
…女ハ死ンデシマッタヨ、オマエガ殺シタノダロウ…、翔一の居場所を世の中に知らせるように、無機質な呼び出し音は鳴り続けた。雨と汗でべとつく手でポケットから電話を取り出し、耳に押しあてて息を潜めた。ザーザーという雑音がしていた。それだけが、聞こえるものだった。
「苑加?」
 割れた声で聞いた。返事はない。電話の向こうでも雨が降るばかりだった。翔一は電話を電源ごと切って、シャッターの閉まった店のウインドゥに寄りかかった。新宿駅東口の黄ばんだ光が霞んで目に映った。立っているのもあやしいほど疲れていた。 
 今、苑加は顔も思い出せないほどに希薄だった。どれほど彼女のことを知っていたと言えるだろう。両親の家がどこにあるとか、兄弟はなにをしているとか言っていたが、翔一はろくに聞いていなかった。世間一般の平均値的な二十代男女つき合いで、お互いにそこそこ満足している現状というのは苑加も同じだと思っていた。だがそれは都合のいい解釈だった。苑加は世間一般の平均値的な男女として、二人という単位の将来を考え、それに向けて現状を発展させてゆきたい気持ちがあったのだ。自分は翔一にとって特別な人間ではない、いくらでも代用が効く相手なのだ、と感じるようになっていたのではないか。そしてそのことを問われれば、苑加はかけがえのない人間だと翔一は言えなかった。身に覚えのない借金を負わされ必死で捜したが、はじめてだった。こんなに彼女を求めたのは。
 粘った滴がこめかみをつたった。どうして雨が止まないのかわかった。まやかしがことごとく流されてゆく。濡れた顔をシャツの胸元でぬぐうと、わずかだが涼しい香りが移っていた。だがそれすらも、とうの昔に葬られた人間の死臭のように遠い。足元から蒸発するような浮遊感が上ってきた。このまま立ちすくんでいたら、眠るように気を失ってしまいそうで怖くなった。翔一はウィンドゥから身体を起こすと、下水の溢れる道路を渡って、東口の黄ばんだ灯りに向かった。
 東口の植え込み横に立てられたビニールテントの特設舞台を通りかかった時、真っ暗なステージの端に人影があった。息が止まった。腰かけていたのは金曜の夜、改札口前にいた女であった。湿った髪のかかる肩を落とし、膝丈のスカートから脚をだらりと垂らして、ぼうっと前を見つめていた。こんなに近づいても、その顔は暗く霞んでいた。もう女が誰であってもよかった。ただ一つわかるのは、この女も生命を産み出し、脱け殻になってしまったということだった。その屍のような肉体を踏みにじった夜の雨が、無人のネオンに照らされて銀の針となり突き刺さる。
「家へ帰ろ」
 唇を固く結んだ蒼い顔を女は翔一に向けた。
「一緒に、帰ろ」
 翔一は恐る恐る女の腕に触れた。表情が微かに柔らいだように見えた。うながされるままに女は立ち上がった。女の腕は弾力のない皮膚がぬめり、翔一は胸にこみあげくる熱い塊を飲み下した。
 東口の階段入り口を警官服が横切ってゆくのが見えた。突然、翔一は背中に鈍器がぶつかってきたような打撃を受け、水はけの悪いコンクリートの地面につんのめった。右腕を下にして倒れたため、右肩に砕けるような痛みが走った。一体なにが起こったのかわからなかった。痺れる右腕をかばいながらのろのろと四つん這いになって振り向くと、女が嗚咽とも悲鳴ともつかない声を上げて、テントの横の植え込みにざわざわと音をさせながら分け入ってゆくのが見えた。駆け寄って来た警官に助けられ、翔一はよろよろと立ち上がった。警官の制服から、湿った煙草の匂いがした。
「大丈夫ですか? あいつか」
 痩せた中年の警官は植え込みの方を睨んで舌を鳴らした。女を知っている風だった。
「突き飛ばされたんですね?あの女、何を言ってきたんですか?」
 翔一は小さく首を振った。転んだ時口の中が切れたらしく、唾液に血の味が混じっていた。
「家へ連れて帰りたいんです」
 視界が沁みるようにぼやけたのは、雨のせいではなかった。
「え、家? 連れて帰りたい?」
 目と口をぽっかり開けた中年の警官は、太古の土偶人形のようにやさしい表情だった。何もかも彼に話したくなった。近親の湿った同情より、見知らぬ暖かさの中で罰せられたかった。赦されるための罰を知りたかった。翔一は口の中を舌で擦り、血の味を求めた。
「母親と犯ったら、どうなるんですか?」 
「ええ? あれ、あなたのお母さんですか?そうなの?」
 警官が背中を丸めてうつむいている翔一を覗き込んだ。
「母親と犯って、母親とはぐれた娘を、」
 声がひどく震えた。
「ちょっと待ってよ。聞くけど、あなた、あの人の息子さんなの?」
 先程より語尾の強まった声で警官は尋ねた。
「お母さんの名前は?」
 答えられなかった。それが真実だった。
「お母さんの名前だよ。言えないの?」
 酔っ払いを相手にする時の億劫そうな苦笑が、警官の顔に浮かんだ。
「お兄さん、大丈夫? ちゃんと帰れる?家どこ?」
 なに一つ答えられなかった。警官の制服からかすかに湿った煙草の匂いを嗅ぎとるだけが、翔一を現実にかろうじてつなげているものだった。
「大丈夫だね? まったく。もう遅いんだから、気をつけて帰ってよ」
 警官は翔一の肩を軽く二つばかり叩くと、黄ばんだ光がにじむ東口の階段入り口へ小走りに戻って行った。階段入り口には、透明のビニール合羽を着た警官がこちらを見ていた。痩せた中年の警官は、服についた雨の雫を払って翔一の方を振り向いた。
「なに、酔っ払い?」
「いや、酔っ払ってはいないみたいだけど」
「また頭のおかしい奴か」
「ああ、その口」
 二人はそんな会話をしているに違いない。ビニール合羽の警官はフッと笑い首を振って、二人は別々の方向に歩いて行った。
 あちこちで時計の針が重なり、日付けが変わった。新しい日は朝の光ではなく、夜明けにもとどかぬ闇の中ではじまる。つんのめる足取りで翔一はビニールテントまで歩き、女が腰かけていたあたりに座った。もしかしたら、女は戻ってくるかも知れないという思いがあった。

 うな垂れたまま、どれくらいそうしていただろう。下がった右肩に何かが寄っているのを感じた。顔を上げると、男が座っていた。張りのないこけた頬と小鼻の皺の深さから、齢は翔一より上なのは確かだったが、ひどく年寄りにもそうでないようにも見えた。暗がりでもわかる黒目がちの目が微笑んだ。男は翔一の背中をさすりはじめた。男の手がゆっくりと描く楕円から、慰めが優しい波紋となり伝わってきた。疲れ果てた神経が、水に沈んだ砂糖の塊のようにくずれていった。
 まろやかな眠気に包まれ、翔一は男に身をあずけかけていた。背中をさする楕円がだんだん歪み、奇妙な圧力が加わるのを感じた時、翔一は重い瞼を開けた。男の手は翔一の胴まわりを探るように這っていた。狡猾な蛇が巻きつくように、男は翔一の膝の上に身を倒した。湿り気を帯びた整髪剤の匂いに、翔一は身震いした。冷たい手が、ベルトの下を潜ってきた。男を引き離そうと翔一は身を捩ったが、胴に巻きついた腕はおどろくほど硬く、解こうとするほどますます喰い込んできた。氷水を浴びせられたような恐怖が走り、翔一は男の肩甲骨の間に右の拳を力一杯打ち込んだ。男は一瞬反り返ったが、離れる気配はなかった。右腕にころんだ時の激痛が戻り、じりじりと痺れた。翔一は即座に左手で拳を作ったが、思うように力が込められないのを感じた。これで殺らなければ、もう力は残っていそうもなかった。翔一はありったけの憎しみを賭けて、男の後頭部を一撃した。
「グあぁっ」
 潰れたような呻きが聞こえて、締めつけられていた胴のまわりが瞬時に解けた。翔一は膝の上に突っ伏した男に手をかけた。重かった。押せども突けども、びくともしなかった。ネオンに照らされた銀の雨が、傍観する神の遣いとなって降り注ぐ。涙を流しながら抗い、それが犯した罪の重みだと知った時、翔一は一切をやめた。
 甦生した男の腕が、ゆるやかに大胆に巻きついてきた。鳥肌だつ皮膚の下で、翔一の体は開きはじめていた。俺は、赦されるための罰を求めていたのだから・・・
 二度と忘れられない汚濁が、すべての罪を吸いとってくれる煽情感とともに、血にのって体の隅々まで広がっていく。石のように丸くなった男は低い呻きを洩らした。さっきとは違う、熱っぽい吐息が混じった声だった。にわかに強まった雨に、植え込みの樹々がざわめいた。あたらしい雫を孕む喜び、あるいは呪詛。    
【了】

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