列車で行く会津

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  今年の秋の彼岸は、会津若松まで列車の一人旅をした。磐越西線に乗りたくて、行きは新潟まわりのルートを取った。雨模様だったけれど、初秋の山間にかかる繭糸のような雲霞を分けて進み、時折阿賀野川に寄り添って、それも終わるといよいよ会津平野が広がっていく。


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 会津若松に着いたら、空が晴れて天気になった。ラッキー!じいさま、ばあさま、伯父御の墓へ向かう道に咲いていた曼珠沙華。じいさまの命日は彼岸の最中で、毎年この花におくられる。











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 小学生の時に連れて行ってもらった以来の飯盛山へ行ってみた。元気だったじいさまは階段を上ろうと言ったけど、ヤダヤダとごねてエスカレーターに乗ったのを憶えていた。今度こそじいさまにあやかり、私は階段を上ったぞ~ ふぅ。












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 この地で自刃した白虎隊は、十五、十六、十七歳の少年兵だった。戊辰戦争で新政府軍との熾烈な戦いに向かった彼等の意志力に、あらためて驚かされる。これが名に負う会津藩士の子弟なのだなぁ。








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 戸ノ口原の戦いから撤退し、飯盛山の上から少年達が見たのは、黒煙たち上る城下と鶴ヶ城だった。(実際は城は焼けていなかった) どれほど無念であったろう。戦いがなければ、それぞれはどんな未来を志していただろうか。生きていれば、明治日本に貢献する人材であったにちがいない。








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 飯盛山のさざえ堂は不思議な建物だ。堂に入ってらせん形の上り通路と下り通路が違う。建立は寛政八年(1796年) 会津のばあさまが、外国の研究チームが来て構造調査をしたと言っていた。













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 さざえ堂の中はこんな感じ。目が回りそうかな?















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              最上階はこうなっている。


















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 さざえ堂を下って杜の中に、厳島神社がある。元は宗像神社と呼ばれ、市杵島姫命と弁才天が習合して祀られていたようだ。創建は南北朝時代の永徳・弘和年間(1381年~1383年)とのことだから、ここは古くから聖地として敬われていたのだろう。












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 厳島神社境内につくられた水路の水が流れて来る戸ノ口堰は、猪苗代湖から引かれている。白虎隊少年兵達は、戸ノ口原の戦いからこの洞穴を通って飯盛山にたどり着いたのだった。











 日に日に早まる秋の夕暮れ、磐越西線郡山行きに乗り、私は会津若松を後にした。猪苗代に近づくと、磐梯山も近づいて見える。
 雪国の秋は足早に過ぎてゆく。あと二ヵ月もすれば、会津はちらほら雪が舞いはじめるだろう。すぐに、じいさま達の墓も白い静寂に埋もれ、どこにあるかもわからなくなった墓地には、時折、山の樹々の枝から雪の落ちる音がするだけだろう。

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